萬龍

 明治四十年、「文芸倶楽部」が実施した全国百美人の読者投稿で九万票を
獲得して見事一等になった「萬龍(まんりゅう)」、絵葉書は勿論として、
「酒は正宗、女は萬龍」と清酒や三越のポスターにも登場している。また、
当時の新聞には「萬龍物語」が連載され、流行歌にもその名が登場する。

 現代にも通じるように愛くるしい萬龍は、赤坂の置屋・春本抱えの芸妓だ
った。彼女のことは、浅草が好きで十日に一度は訪れていたという谷崎潤一
郎の小説「鮫人」の中にも登場する。この本には、日本人が贅沢になってい
く大正時代の浅草公園、世の中にモガ・モボが台頭し古い文化がどんどん失
われつつある時代の絵葉書の美意識を次のように描く。

『日本人の間には今迄見出されなかつた女性の容貌と姿態と体格との新しい
「美」の一面を、日本人の血と肉とを以て築いてくれたから。或は築いたと
云ふことは出来ないでも築かんと試み、遂には築き上げる事の可能を示して
くれたから。兎に角彼等は我れ我れの眼を古い女性美から新しい女性美へ向
き変へさせた。市中ではぽん太、小ゑん、萬龍、静江以来の藝者の絵葉書が
売れなくなつて、活動やオペラ女優の絵葉書が売れ出した。そんな物を買ふ
奴は不良少年ばかりだと云ふかも知れない。が、そんなら今の日本は何であ
るか?』

 また、詩人の石川啄木は函館の友人、並木武雄に「萬龍」の絵葉書を使っ
て、「この女の名だけでも知ってる者は、函館で君の外なかろう」と書いて
送った。この絵葉書は岩手県玉川村渋民の石川啄木記念館に現在も保存され
ている。

萬龍、本名静子 明治27年〜昭和48年(1894〜1973)

谷崎潤一郎の友人の東大卒の法学士、恒川陽一郎との恋愛結婚で、世間を驚
かせたが、恒川は結婚二年後に病死。その後、歌舞伎座の設計で名を馳せた
建築家の岡田信一郎と再婚。岡田の没後は茶道の師範として多くの弟子に慕
われた。