令和8年(2026)3月11日(水) 旧暦1月23日 大安
今朝の撮影 Data SONY α1 II Sigma 20-200mm F3.5-6.3 DG iPhone 17ProMAX 現像 Adobe PhotoshopLightroomCC 撮影枚数833枚
- 十五年 波は去れども胸にあり 忘れぬ人の名呼ぶ北風 -
下弦の月(弓張月)の今日は、東日本大震災から15年という節目の日を迎えました。日本列島は、東へ進む移動性高気圧にゆるやかに覆われ、全国的に穏やかな天気となっているようです。 今朝の東京の外気温は1℃。澄んだ空気は肌に刺さるように冷たく、あほまろは思わず真冬の装備を引っ張り出して、いつもの散歩に出かけたのでございます。春が近づいているとはいえ、夜明け前の浅草はまだまだ冬の名残を残しており、吐く息も白く漂っておりました。 日中の東京の予想気温は10℃とのことで、日差しが届けば少しは寒さも和らぎそうですね。全国各地でも穏やかな空模様になる見込みで、各地で行われる東日本大震災の追悼式典にも、天候の心配はなさそうでございます。 あの日から十五年。時は流れましたが、あの出来事を忘れることなく、静かに手を合わせる一日でありたいものですね。 あの日から、十五年の歳月が流れました。人は時とともに多くのことを忘れていくものですが、あの日の揺れ、あの日の海、そしてあの日に失われた多くの命のことだけは、決して風化させてはならない出来事でございます。 今日という日は、静かに手を合わせ、あの日を思い返す一日でありたいものですね。 被災に遭われた方々、そして尊い命を失われた方々に、あほまろも心より哀悼の意を捧げ、ご冥福をお祈り申し上げます。 あほまろの友人も、この震災で行方不明になっているのです。彼は定年を迎え、長年勤めた会社から退職金を手にすると、故郷の宮城県名取市に念願の新築の一軒家を建てたのでした。 「客間も造ったので、落ち着いたら遊びに来いよ。近所に飛行場もあって海も近い、若い頃のように飲みあかそうじゃないか…」そう誘われていた矢先に、あの大震災が起きてしまったのでした。 彼は、その家とともに、家族とともに、津波に呑み込まれてしまい、今もなお、行方は分かっていないのです。 また、福島県いわき市に住んでいた同級生も、津波の被害に遭いました。 彼の父親は当時、国鉄の幹部で、学生時代のあほまろは、よく常磐線の平機関区に連れて行ってもらったものでした。蒸気機関車がまだ現役だった時代、親子で機関区を訪れ、記録を取り続けていたのです。 昭和四十年代、常磐線の電化を目前に控えた頃――。最後の蒸気機関車たちが整備を受けていたあの平機関区で、あほまろは彼の父親の計らいで、特別に撮影の許可をいただいたことがありました。 巨大なC62が、整備庫の中で静かに煙を吐いていた光景。あの黒光りする鉄の塊が、まるで生き物のように呼吸していた姿を、あほまろは今も忘れておりませんよ。 しかし、その同級生の家も、津波によってすべて流されてしまいました。写真も、日記も、資料も――。 父と子が数年かけて記録してきた平機関区蒸気機関車の記録は、海に消えてしまったのでした。 彼と父親の命だけは、かろうじて助かりました。しかし、彼の母親、妻、そして二人の娘さんは帰らぬ人となってしまったのです。 二人は茨城の親戚の家に避難し、その後、行政が用意した仮設住宅へ移りました。しかし福島第一原子力発電所の30km圏内の屋内退避区域に指定され、避難所を転々と移り住む生活が続いたのです。 その途中で、父親も他界してしまい、いま彼は一人で暮らしております。久しぶりに電話で話したとき、彼はこんなことを言っておりました。 「年々、災害公営住宅の家賃が上がるんだよ。年金だけじゃきつくてさ…」 同い年の友人が、たった一人でそんな暮らしを続けていると思うと、あほまろには胸が締めつけられる思いでございます。あほまろには、とても耐えられそうもありません。 数年前、古い写真を整理していたところ、懐かしい平機関区の写真が出てきました。昭和四十二年の夏、あの機関区で撮影した蒸気機関車の写真です。 整備中のC62の前で微笑む親子の写真などを数枚スキャンをして、彼にメールで送ってあげたのでした。 親子で二十年かけて記録してきた写真には、到底及びませんが、あの時代の記憶を少しでも取り戻してほしいと思ったからです。 しばらくして、彼から電話がかかってきました。 「……ありがとう」 それだけ言うと、あとは言葉にならず、いい年をした男が、子どものように泣きじゃくっておりましたよ。その彼もまた、昨年、静かに鬼籍へと入ってしまいました。 写真というものは、不思議なものでございますね。ただの紙切れのようでいて、そこには消えた時間が閉じ込められているのですからね。 ここ浅草は、東日本大震災による大きな被害はありませんでしたが、浅草寺の五重塔の先端にある相輪の宝珠が割れ落ちたくらいでしたよ。 それでも各家庭では、家具が倒れ、食器が割れ、あほまろの秘密基地でも本棚やテレビが倒れて、後片付けに追われたものでした。 そして今朝――。 あほまろは、冷たい北風を受けながら、浅草寺と浅草神社の両方にお参りをしてまいりました。二度と、あのような悲しい災害が起きませんように、と。 人の力ではどうにもならないこともありますが、それでも祈ることだけはやめたくありません。 信じる者は救われる――。そうであってほしいものですね(合掌)。 「十五年 波は去れども胸にあり 忘れぬ人の名呼ぶ北風」(阿呆人也) あの日の海は遠くに去りましたが、記憶の波だけは、今も心の岸辺に寄せては返しているのでございます。 浅草寺の裏広場には観光客の喧騒も届かず、ただ静かな空気が流れる、とっておきの場所でございます。 その片隅で、人知れず「時間の重なり」をそっと見せてくれているのですよ。新しい一日の光の中に、過ぎ去った無数の朝が溶け込み、まるで昨日と今日とが静かに握手を交わしているかのようでございました。 新しい葉が芽吹き始めても、枝先にはなお昨年の実を手放さず残しているハナカイドウの実。季節が一歩先へ進もうとするその傍らで、過ぎた時を静かに抱え続ける姿を毎朝残しているのです。 今朝の日の出は午前5時58分。 浅草寺宝蔵門前には、日本三大桜のひとつとして名高い福島県の「三春滝桜(みはるたきざくら)」の系統から移植された、大きなシダレザクラがございます。 これが満開を迎えると、朱塗りの宝蔵門との取り合わせが実に見事。滝のように枝垂れる淡い花と、重厚な門の佇まいが織りなす光景は、まさに春の浅草ならではの贅沢な眺めですよ。 国民的大女優・有村架純妃ご本人のお手植えとして浅草寺に奉納された、由緒ある河津桜もそろそろ終わりですね。 ボケの花。 境内の河津桜は終わり、枝先には小さな「さくらんぼ」のような実が、ぽつりぽつりと顔を出し始めましたよ。 頑張り続けるシキザクラ。 夜明け前にビクトリー君たちがやってきましたが、これからやることがあるので時間切れ。彼らの写真だけ並べておきますのでご覧ください。 ビクトリー君とレインボウちゃん。 ピース君とハートちゃん。 今朝は四羽で乱舞を見せてくれました。 木の上からヒヨドリが見てました。 おはよう益美さん。 おはようございます。今朝は開門4分前にいらっしゃった、野崎さんと高橋さん。 子育地蔵さま、わが家の子どもたちと猫の安全をお守りください。 奥山の奥に移動された「日本のナイチンゲール」と称される瓜生岩子像。 春の境内をご覧下さい。 まだ寂しいイロハモミジ。 椿の花。 こちらも寂しいソメイヨシノ 「散りそびれ 時の流れに 抗(あらが)いて 幹しがみつく 意地の四枚葉」(阿呆人也) 浅草寺の西側から新奥山庭園一帯が、ただいま舗装改修工事の真っ最中でございます。工期は令和八年八月三十一日まで。まだしばらくは、見慣れた景色の足元が落ち着かぬ日々が続きそうでございますよ。 あほまろは今日も秘密基地でダラダラ過ごしますよ。 ------------------------------------------------------- 夕べの睡眠は69%でした。 おはようヒロちゃん。 今朝の朝の朝食は、ホタテと野菜とタマゴに固いパン。デザートはイチゴ。 妻のコレクションは、ソフィアさんと陽子さん。 昨日の東京スカイツリー。 しゅと犬くん。 あほまろお帰りなさい。 夕べの夜の夕食の晩ご飯は、娘がデパートの英国展で買ってきた、良く解らないもの。 妻のコレクションは、アナスイさんと八千代さん。 Memo iPhone 16 ProMAX