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あほまろとモモちゃんの今朝の浅草日記

平成19年3月10日 (土) 旧暦1月21日先負

- 東京都平和の日 -

日記写真


『今朝の浅草』
 暖かい平和な朝を向かえました。最近は面倒くさいのか散歩にも行きたがらないモモちゃんなので、抱っこして玄関まで連れていくのですが、今朝はとっても機嫌が良く、自ら進んであほまろの書斎を出ていくのです。窓から射し込み朝日の様子から平和な外の暖かさを感じとったのでしょうね。
 悲惨な戦争を知らず、平和と繁栄の時代に生まれ育った団塊の世代あほまろですが、日本を大きく変えたあの言葉、「戦争を知らない子供たち」と片づけられてしまうのは、「戦争を知っている人たち」が、悲惨な戦争の記憶をマスクし、子供たちに語り継がなかったことが「戦争を知らない子供たち」をつくってしまった。そう思われるのは辛いことですね。むしろ「戦争を知らない子供たち」であるからこそ、あの戦争が何であったのかを根底から考え、それを次世代の「全く戦争を知らない子供たち」に正しく伝え残さなければいけないと思うのです。

 昭和20年の今日3月10日未明、
アメリカ空軍によって一夜のうちに東京の下町一帯を焼け野原に変えられ、八万人以上の死者で街や河を埋めた「東京大空襲」の記念日です。この日の出来事はすでにご承知でしょう。あえてここでは触れませんが、江東区・墨田区・台東区にまたがる40キロ四方を、B29のによるナパーム製高性能焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空飛行のB29から機銃掃射が浴びせられたのです。

 3年前まで、あほまろが毎朝お詣りをしているお地蔵さん広場に毎月10日になると必ずお花を手向けてやって来たお婆ちゃん、“あの日、この場所に逃げ込んで子供を殺されてしまったんです。”と、涙を流していたのですが、あれ以来みかけなくなってしまいました。「東京大空襲」から62年目、あの日の経験を語ってくれる人はどんどん去ってしまいましたが、浅草寺境内には焼夷弾の傷跡を今も鮮明に残したまま訪れる方々に戦争の悲惨さを訴えかけているのです。

 今日、午後2時30分より浅草寺淡島堂の「浅草大平和塔」前にて、浅草大平和塔戦災殉難者法要が行われます。
   写真00
「建設趣意書」
 思い出づる調べも哀し昭和二十年三月九日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……眼にうつるものは一面の焦土にて、一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
 当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
 よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
 以て瞑せられよ。
            昭和三十八年八月十五日     浅草大平和塔維持会

   写真7
 
アメリカ空軍のB29、330機による非人道的な無差別空襲を受けた下町一帯は「炎の夜」と化してしまったのです。写真は空襲の翌日アメリカ空軍の撮影です。建物は倒壊し、鉄骨は折れ曲がってしまった、目の前に広がる痛々しい光景。この時のカメラマンは写真を撮りながらいったいどんなことを考えていたのでしょうね・・・。
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『今朝の雷門』
 東京大空襲の時にはまだ無かった雷門ですが、ここから本堂まで続く仲見世は、関東大震災の後に造られたまま戦渦を逃れて今もその姿を残しているのです。
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『今朝の一写』
 週末の奥山に屋台の設置が許されています。許されているといっても、決まった業者以外は入れないのです。それを仕切っているのは、今も昔も観音様じゃなく、それなりの団体が世襲で行っているのです。いつもの団子屋の安○さんに、“毎週、毎週大変だね”と労ってあげると、“なに、もう30年もやってるので全く苦にならないよ”
  写真1
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『今朝の境内』

 「東京大空襲」の生き証人。62年経った今でも軽く触っただけで煤が付きますよ。このままの状態でなんとか保存できないものでしょうかね・・・。お地蔵さん広場の大銀杏です。
   写真2
 こちらは、旧五重塔前に立っていた大銀杏。今も焼夷弾の直撃を受けた跡が生々しい大木なのです。
   写真3

 こちらも被災した大銀杏。近づくと他の木と同様、幹は焼けただれてますよ。
   写真3
 今日が鬼畜○によって焼き尽くされてしまった記念日、そんなこと知ってか知らずか、忌々しい国からの観光客が、何も無かったかのように境内で写真を撮ってましたよ。今日だけはこれを平和と思いたくないよな・・・。
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 これがお地蔵さん広場です。
   写真3
 こちらは鐘楼でおなじみの弁天山。ここも焼き尽くされてしまったのです。
   写真7
 あの日のこの場所。想像するだけで背筋が寒くなってしまいますね。  
   写真9
 本堂も焼け落ちてしまったのです。現在の本堂は、昭和33年(1958)に再建されたものです。
   写真10
 
 今訪れる方々には62年前の出来事なんて全く関係ありませんよね・・・。
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 浅草神社だけは奇跡的に難を逃れたのです。建築様式は江戸時代初期の代表的な権現造りで、昭和26年国の重要文化財に指定されました。
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 重要文化財の敷地に咲くソメイヨシノ。
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 ど〜です。いよいよピンク色が見えてきましたね。
   写真12  
 平和でのどかな境内。あの日のここでは、それよりも今から街中で話題の絶えない三社祭の宮出しの時のこの位置では・・・。浅草神社前の敷石です。
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 占い看板の下で何やら書いている方、占い師なのかなと思って近付いてみると、競馬の予想をしてたんですね。占いで勝ち馬を当ててくれるのなら、みんなが買いたいでしょうけど、それだけは売らない(占い)ようです。
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 六区を歩く平和なおねえさんたち。
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 あの日は、ここ六区も総ての建物が倒壊してしまったのです。
   写真12   
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 浅草に直接関係の無いお話も多いですが。ここは、あほまろの呟きですかね。
『今朝の余談』
 3月17日〜18日、伝法院通りで「ご縁日祭り」が開催されます。今年は「浅草ふくまる旅館」のロケ地となった通りなので、お祭りも賑わうことでしょう。当日は、「浅草ふくまる旅館」コーナーも設けられるようで、出演者もいらっしゃるのでしょうかね。
   写真12
 日中は観光客で混み合っている通りですが、朝はご覧の通り閑散としているので、まるで映画のロケセットのようですよ。
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今朝の写真
CANON EOS-30D,CANON ZOOM EFS10-22 F3.5-4.5 / EFS17-85 F4/5.6 IS
撮影枚数92枚
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