あほまろとモモちゃんの今朝の浅草日記

平成17年8月12日 (金) 旧暦7月8日友引

- 歴史の記録 -

日記
写真館に隅田川花火大会をアップしました。


 雨の朝は憂鬱ですね。それでなくてもあほまろはまだ歯が痛むっていうのに、早々にモモちゃんの散歩を終えてから、午前中に締め切りがとうに過ぎているって仕事を片づけなくっちゃいけないのです。
 雨の中での駆け足の散歩では、町の話題なんても見付かる訳ないですよね。あちこちに掲げられ、どっちかというと見飽きてしまった「つくばエクスプレス」開通記念の垂れ幕やポスター、浅草では早くから盛り上がり過ぎてしまったのか開通が2週間後に迫った今に至ってお祭り騒ぎも小休止って感じです。これで、電車が当たり前のように走り出してしまうと開通で盛り上がった一時期の時勢のなりゆき、その中で高まろうとしていた感動さえも、過去のものになってしまうのでしょうね。
 1周年はもちろんですが、10年後、20年後と節目の記念日になると思い出す。これが歴史となっていくのです。今、浅草の人達は小さな歴史が創られつつある大切な時期を過ごしているってことを、誰かが記録しておかなければと、あほまろは勝手な使命感を持ってひとときの盛り上がりを記録し続けているのです。
 あほまろのところには、新聞社を始め出版社などから、過去の浅草のイベントの写真の依頼がとっても多くなってきました。何年の何のイベントとか、どこどこ商店街が変わる前の姿等々、これが言われた通りに出てくるところがあほまろ写真館なのです。浅草に越して来てから6年間の蓄積が、わずか6年前のことでも歴史の証拠として登場してくるのです。それもそうでしょう、イベントではみんなが写真を撮りますが、普段の浅草の商店街にカメラを向け続ける物好きは、そう多くないでしょうからね。
 そんな依頼で過去の写真を振り返っていると、自分でも、わずか数年前には当たり前の光景だった商店街の変貌に改めて驚くのです。“こんなの残してどうなるの”、時々友人たちから言われることもあります。今は当たり前でも、毎日これだけの写真を残していることで、10年後、20年後、更には100年後に淺草の歴史を振り返る方々への贈り物として、タイムカプセルに入れてどっかに埋めておきたいですね。
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 今朝の東京新聞に、「壁画でよみがえったSKDラインダンス」の記事が載っています。台東区西浅草の浅草ビューホテル裏手にある喫茶店「シルクロード」の屋根上に、元松竹歌劇団(SKD)の呼び物の「ラインダンス」を描いた壁画が完成したのです。
 国際劇場が43年の歴史に幕を閉じ、閉館したのは1982年4月です。この年の出来事で今でも忘れないのが、「日航機の羽田沖墜落事件」いわゆる“片ぎった”機長と、その翌日の「ホテル・ニュージャパン火災」、そして6月には、「東北、上越新幹線開通」など、忘れられないことがいっぱい有った年なのです。あほまろ家も然り、息子が小学校に入学するのを機に札幌から東京に越して来た年でもあるのです。
 またまた話が反れてしまいましたね。そう、「ラインダンス」の壁画が描かれたのは、喫茶店「シルクロード」の二階上部。高さ2メートル、長さ7メートルにわたって、総勢47人の踊り子が横一直線に並んで足を上げているのです。この絵を描いたのは、あほまろの知り合いの画家、田中憲治氏。これだけの絵を約2週間で仕上げたのですよ。
 写真は、ちょうど下絵が完成した8月4日のものです。あほまろはまだ完成した姿を見ていません。今朝は完成した姿を見ようと思ったのですが、この雨じゃね・・・。明日にでも行ってきますよ。
 この記事で、「劇場閉鎖を境に、浅草もこの路地裏もどんどん寂れていった。これを機に、もう一度、SKDのにぎわいがこの裏に戻ってくれれば」と、喫茶店の常連客の一人がいっていたと締めくくっています。
 そうです、当たり前のようでも日々変化する町並みと裏路地を記録し続けているあほまろには、“寂れて”って言葉の奥に秘められた一抹の想い、理解出来ますよ。
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 “歴史に残っている”といえば、昨日、絵葉書の整理をしていて気付いたことがります。浅草寺横の奥山に建立されている、日本のナイチンゲールと呼ばれた「瓜生岩子」女史の銅像の建立式を記録した絵葉書です。記録を調べてみるとこの銅像が建立されたのは、明治34年4月、瓜生慈善会によって建立されたと記されていますが、今の銅像とはちょっと雰囲気が違っているような。
 それもそのはず、昭和18年に浅草寺境内の銅像は総て軍部に供出されて鉄砲の弾になってしまったのです。今の銅像は、昭和30年6月に再建されたものだったのです。このように、ちょっとした記録でも、後の人への証拠として残してくれるのが写真の良さなのです。この他に当時は久米平内堂の銅像とか、いっぱい有ったのですが、残念ながら総て軍部に供出されてしまったままなのです。
 再建された「瓜生岩子」女史は、福島県喜多方の出身の看護婦。戊辰戦争のときには敵味方の区別なく看護したり、孤児を救済するための施設や無料の病院をつくったりと福祉事業に一生を捧げました。そして、女性初の藍綬褒章を受けたことでも有名な方です。でも、なぜ浅草寺に建立されたのか、調べても接点が無いんですけど・・・。
 いまでも、毎月の命日には、看護学校の関係者によってお花が供えられるのです。


今朝の写真
CANON EOS-KissDN,CANON ZOOM 10-22 F3.5-4.5
撮影枚数30