あほまろとモモちゃんの今朝の浅草日記

平成17年7月22日 (金) 旧暦6月17日仏滅

- 厚さで狂った? -

日記


 どんよりと曇った朝です。多少は涼しいかななんて思いながらベランダを開けると、ム〜とした熱気が当たり前のように入り込んできます。あ〜やっぱし暑いんだな・・・。こんな朝は、日の照っている時と違ってとっても湿気を感じてしまうのです。その証拠に、あまり汗をかいていないのに、なんだか衣服が身体にまとわりついてくるような。海水浴場のように、裸で歩けたら気持ちが良いでしょうね・・・。
 そんなこと思いながらモモちゃんと歩いていると、雷門前でどっきり。ほとんど水着のような格好で歩いてくる女性がいるじゃないですか。近づいてくるのを待ちかまえて写真でも・・・、なんて思ったのですが、あんた鏡を持っるの?って顔に、泥パックを拭き取るのを忘れたかのようなお化粧。レンズが腐ってしまったら大変なので・・・、止めました。
 交番のお巡りさんも、遠くから歩いて来るその女性に注目し、目の前を通り過ぎるまでジ〜っと眺めていましたよ。一昔前だったら犯罪だよね。おまわりさんと目が合ったあほまろ、声は出しませんでしたが、お互い“バカだね”なんて顔で笑ってしまいましたよ。
 こう暑くっちゃ、あほまろだって、あんな格好で歩いてみたいよ。とは思っても、行動に移さないのが常識人なんですよね。あの女性は、この暑さで狂ったのかな?
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 毎年8月の下旬に開催される「台東薪能」、今年はちょっと早まって、8月2日(火)に開催されます。浅草寺裏広場では、その舞台と客席造りが始まりました。毎年決まった位置に決まった舞台を造るので、舞台周りの総ての材料には位置と向きが記されているようです。たとえば、小さい材料にはカタカナで「ハ二」とか、「ヒ三」、長い材料はひらかなで「ま五」とか「る四」なんてね。これを図面通りに並べていけば完成するのでしょうけど、これってとっても古風な感じがしますね。きっと古来から毎年定期的に開催される行事用に材料を仕込んでおいて、それを組み立てるだけで良いような方法が伝えられているのでしょう。
 薪能は室町時代中期に奈良興福寺の神事「薪猿楽」から始まり、能楽の大祖観阿弥によって観賞用の薪能となりましたが、明治以降趣味の多様化と同時に「能」そのものが衰退してしまったのでした。現今の「能」の先鞭をつけたのが、浅草蔵前復活した能演だったこともあり、その縁の地である浅草寺において、昭和55年より、古式に則り、「台東薪能」と題しての公演を行っているのです。
 きっとこれらの材料は、昭和55年からず〜っと使われているのでしょうね。中には真新しい材木も交じっているようなので、壊れたら新たに作り直しても、番号を変えなければいつも同じ状態を保てるのです。あほまろは「能」より、こっちの方に日本古来からの伝統文化を感じてしまうのです。
 昔、あほまろがサンフランシスコで仕事をしていた時の楽しみは、ゴールデンゲートパークで毎年開催されていた「日本祭」です。会場には、お茶屋さんやお蕎麦屋さんなどの日本建築が立ち並び、日本から招待されたお祭りや踊りをアメリカ人に披露するのです。そんな施設を造るのは当然地元のカーペンター(大工)さんです。その日が待ち遠しくて、ゆく準備風景から見ていました。建設工事は、適当な長さの材料を現場合わせで切っていき、それをいわゆる「かすがい」のような金具で留めるだけなのです。こんなんで、よく屋根が持つな・・・、そんなこと感じたことがありましたよ。
 余談ですが、サンフランシスコの大地震の時に倒壊した家のほとんどが同じ造り方だったのを鮮明に記憶しております。日本家屋のように、木材を性格な穴と爪でつなぎ合わせるといった技術を用いていないので、弱いのは当たり前ですよね。
 そんな「日本祭」が終わると、ショベルカーでバリバリ壊してしまいます。その廃材は欲しい人は誰でも貰っていけるので、我々もバーベキューの燃料にするため、貰ってきたことがあります。アメリカでは僅か一週間程度のイベントはこれで良いのでしょう。日本と違って、材木は豊富にある国なので、使い捨てで良いんでしょうね。きっと・・・。
 「台東薪能」は、準備に2週間を費やし、公演は僅か3時間足らずなのですよ。それも、もし雨が降ったら会場を浅草公会堂に移しての開催となるのです。そうなったら使わず仕舞い。日本人って繊細な国民なんですね。
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 先日、久しぶりに渋谷の「のんべい横丁」に行きましたが、昨日、渋谷で「J-MAC」(マックな集い)の例会の帰りに、助手の古麻呂と一緒に、懐かしの「新宿ゴールデン街」を歩いてみました。あほまろが学生の頃には、花園神社近所のビルで仕事をしていた関係で、毎晩のようにここで食事をしていたのです。
 「新宿ゴールデン街」には、多くの文化人も遊んでいたので有名ですね。最近もっともよく取り上げられるのは直木賞作家の田中小実昌さんでしょう。“コミさん(田中小実昌)を捜したければ、バー「まえだ」の二階に行け。きっとそこで寝ているから”なんて言葉が有名ですよね。数年前に営業は止めたけれど、看板はそのまま残っているよ。当時良く遊んだ友人がそんなこと言ってたな・・・。しかし、いつのまにか取り払われてしまったようですね。昨年亡くなった「なべちゃん」もまだ看板はそのままで営業しているようですけど、知らない連中がやっているようです。
 あの当時、太田のおばちゃんがやっていた「プーサン」ってお店。野坂昭如とか志茂田景樹なんてのもしょっちゅう来ていたな・・・。店主はみんな代替わりをしてしまったようですけど、この雰囲気いつまでも新宿の裏の顔として残っていて欲しいですね。


今朝の写真
CANON EOS-KissDN,CANON ZOOM 17-85 F4-5.6 IS
撮影枚数38