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昨日の春一番の次の日は再び寒さが襲ってきました。これも、春の前の「三寒
四温」(寒い日3日,暖かい日4日)の繰り返し行事なのでしょうね。寒い日が
三日、暖かい日が四日、これを何度繰り返したら本当の春がやって来るのでしょ
う。
浅草神社境内の桜の木、つい2〜3日前には米粒ほどの芽が出たと思ったら、
今朝はすでに大豆大の芽にまで膨れたものもあります。季節の節目節目を示す暦
の言葉の二十四節気では雨水(うすい)〜啓蟄(けいちつ)といって、“雪氷が
とけて雨水となる”、そんな季節のど真ん中です。啓蟄(けいちつ)とは、冬眠
をしていた虫が穴から出てくる頃という意味なのです。
その意味を示しているかのように、神社の桜の周りでにも小さな虫がいっぱい
飛んでいました。おや、モモちゃんの顔の周りにもいっぱい飛んでいますよ、煩
わしそうに首を振るモモちゃんの仕草がとってもかわいいのです。でも、写真で
は表現出来なかったようですね。
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あほまろは北海道ニセコ町生まれなので、この時期の虫を「雪虫」と呼んでい
ました。雪が溶け出し、柳の若芽が芽吹き、蕗のとうの花が咲く頃になるとどこ
からともなく飛んでくるのです。どうしてか、人間や動物の顔の周りだけにまと
わり付いてくるのです。煩わしさを感じながらも、ようやく暖かくなる喜びを運
んで来てくれる、まるで天使のようにも感たのが、「雪虫」だったんですよ。
雪解けの北海道に、「雪虫」が飛んで来るのは、四月の初め頃だったでしょう
かね・・・。
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平成元年の今日は、昭和天皇の「大喪の礼」が行われました。この日は、企業
も学校も臨時の休日となり、何処のテレビ局も「大喪の礼」と昭和天皇の特集番
組だけをCM抜きで放送していましたね。
あの日の東京はみぞれまじりの冷たい雨が降る寒い日でした。歌舞音曲を規制
されて静かで異様だった東京の最も異様だったあの日、朝から助手を従えて特別
仕立の霊柩車を撮影するために三宅坂まで出かけたのです。半蔵門から三宅坂ま
でのお堀沿いには大勢の警察官が並び、我が家から一キロほどの間に数回の検問
を受けたのでした。特に、カメラバックの中の望遠レンズにいたっては中に異物
を隠していないかと入念なチェックをされたのです。
普段は毎日渋滞している皇居周辺の交通はすべて遮断された中を、反対車線か
ら静かに天皇陛下のご遺体を乗せた葬儀の隊列がやってきました。警察官の制止
をかき分けながら徐々に前に出ていって隊列の撮影をしたのでしたが、霊柩車が
目の前を通過した瞬間、カメラを構えながらもついつい頭を下げてしまったのを
思い出します。
今朝、あの日の写真を引っ張り出してみました。あの日撮影したのは、白黒フ
イルムで12本、およそ400カットの中には、誰も居なくなった真昼の銀座や
、あちこちのショーウィンドウに黒いリボンと共に飾られた昭和天皇の遺影など
、今となってはとっても貴重な写真を再認識させてくれたのです。
懐かしい写真を並べていて気付いたのは、当時のあほまろ、常時ブローニー版
のカメラを使用していたはずなのに、なぜ35ミリで撮影したのだろう・・・、
わざわざフイルム全体を四つ切りに焼き付けた印画紙なので、それが35ミリの
フイルムで撮ったということが一目瞭然なのです。そうです、思い出しました。
あの特別仕立の霊柩車のフロントガラスは特別な防弾性を供えた偏光ガラスが使
われているとの情報から、車の中を撮すには、偏光フィルターを使わなければい
けなかったのでした。それで、偏光フィルターを持っていた35ミリのカメラを
持って出かけたのでしたね。おかげで、霊柩車のフロントガラス越しに昭和天皇
の遺影を持った侍従長の姿がはっきり写っていたのです。
1月8日の改元から一月半、まだまだ違和感のあった「平成」の時代を再認識
させられた日でもありました。あれから17年、平成に生まれた子供たちも高校
生になってしまったんですね。あの日のあほまろはまだ40才だったんです。
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