またやってしまいました。今朝起きて外を見ると雨は降りそうですが誰も傘を
差して歩いていないのです。地面も乾いているので、降り出す前に散歩を済ませ
てしまおうとモモちゃんと急いで出かけたのでした。
またまた台風が日本に近づいている影響なのか、南から北へと雲の動きがとっ
ても早いのです。更に今回は今までのものよりも超大型台風なのだとか。テレビ
の天気予報では、台風の渦巻きの中に日本列島を重ね合わせてその勢力の偉大さ
を示しておりました。
そんなどでかい台風を侮ってはいけなかったですよ。やっぱり降られてしまい
ました。それも、強烈なのが一機に来たのです。我々はちょうど観音様の境内で
菊棚を観察している最中だったので、慌てて観音様の本堂に逃げ込んだのでした
が、僅か20メートルほど走っただけでずぶ濡れです。
観音堂でお参りしている方々はみんな傘を持って来てますね。お参りを終えて
帰りしたくをしていたおばちゃんが、我々を見て大きな声で“あんた、こんな日
に傘を持って来なかったの・・・”、本堂の中の方々が全員あほまろに注目です
。そうですね、超大型台風が近づいて来ているってことを知りながら傘も持たず
に出かけてしまったあほまろがアホでしたよ。
またまた、女房に電話です。でも傘が届いた頃には激しい雨も上がってしまい
傘の必用が無くなっていましたよ。女房は怒るし・・・。
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てな訳で、今朝は写真なんて撮ってるばやいじゃ無かったのです。雷門通りに
は「東京時代祭」の提灯が並び、浅草寺境内の菊もそろそろ花を開いてきただけ
で、特に大きく変わったことはありません。ただ、またまた台風の到来とあって
、“明日の夜あたりからは大提灯を畳まなければいけないだろね”、境内を取り
仕切る新門の連中が話してましたよ。今年はいったい何度畳んだのでしょうね。
おかげで本堂正面に架かる「志ん橋」の大提灯の痛みがとっても目立つようにな
ってきました。時期的にみて、この提灯もそろそろ変え時期なのですがね。
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あほまろは古い絵葉書のコレクションをしております。特に、明治期の手彩色
絵葉書に凝っています。明治37〜38年、逓信省(現在の郵政省→総務省)か
ら日露大戦の戦況を伝える絵葉書が発売されたのをきっかけに、絵葉書の大ブー
ムが起こりました。
それまでは日本に赴任した外国人が、日本の風俗伝統などを故郷の家族や親類
に伝えるために買い求めるのがほとんどで、絵葉書の内容も風景はもちろん、今
では考えられないような農作業をする老人とか、炊事洗濯をする婦女、籠で旅す
る人、人力車に乗った芸者さん、等々ごく普通の生活風景が主流だったのです。
このブームのおかげで絵葉書の国内需要も増えそれに目を付けた花柳界では、
芸者さんたちの写真を作って客に配ったのでした。やがてそれらも市販されるよ
うになり、明治40年頃には美人絵葉書も大ブームになったのでした。
当時を代表する美人としては、新橋芸者の「照葉」「萬龍」「音丸」などが東
の代表で、西は大阪富田屋の「八千代」等々、あほまろが狂ったのも当然、今見
てもみなさんとってもお綺麗なのです。
このような美人と風俗の絵葉書、もの凄い数を集めてしまいました。でも、集
めるだけじゃ無く、ちゃんとアルバムに整理してデーターベースで検索すること
も出来るようになっているのですよ。
美人絵葉書を研究していると、当時のいろいろなことが解ってきなす。これも
収集の楽しみなのでしょう。たとえば、当時美人絵葉書の製造元で有名だった銀
座の上方屋の絵葉書には、芸者さんだけでは無く素人美人を多用し、他の会社に
は無い初々しさを醸し出しております。それも、社主前田氏の実娘花子さん(写
真)までも起用してしまう熱の入れようだったのです。
当時の絵葉書美人といえば、今でいうテレビアイドルと同様だったはず。おか
げで、花子さんには素敵な縁談が持ち上がり、結婚後神田上方屋としてのれん分
けをしてもらい、歌舞伎や新劇の絵葉書専門店で大いに繁盛したようです。
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雨で、何の話題もなくまたまた横道に逸れてしまいましたが、現在銀座上方屋
の絵葉書のページを作成中です。今月中には公開できると思います。また、明治
期の浅草を写したものも数多く存在します。上方屋が終わったら、浅草絵葉書に
取りかかる予定です。そのうちにこのページで紹介いたしますね。
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