2002年11月4日 月曜日       

今朝の写真
SONY DSC-F707
撮影枚数47枚

初登場!
 寒い朝になりました。でも、空には雲一つ無い
絵に描いたような秋晴れ。も一つ絵に描いたよう
な富士山が見えています。この数日で、富士山も
だいぶ麓まで雪に覆われてきました。寒い訳です
ね。ほんと・・・。    
 浅草の秋の風物詩「東京時代祭」が終わった。
毎年同じ出し物の中にも、今年は、明治時代の女
流作家樋口一葉が初めてお目見えしました。新5
千円札に肖像画が登場することで一躍脚光を浴び
たため、急きょ木製の人力車に乗ってパレードす
ることになったのです。           
 樋口一葉の、「十三夜」の世界。24歳で死ぬ
直前に書いた代表作の一つで、高級官吏にみそめ
られて嫁いだものの、夫との不仲に泣く女性の悲
哀が描かれた作品です。クライマックスの不忍池
で、主人公”お関”が、たまたま乗った人力車の
車夫が、初恋の相手の落ちぶれた姿と分かるとい
うなんとも悲しい物語なのです。そんな訳で、今
回は、木製で特製の「人力車」が効果的に使われ
ていました。          
 初登場といえば、もう一つ。”大岡越前守と江
戸火消”の行列に参加した、江戸消防記念会の鳶
頭連中の中に、る組の鳶頭飯田氏。あほまろが寄
贈した印半纏を着て参加してくれたのです。夏の
始め頃に作ってあげたのですが、このように公の
場所でご披露するのは今回が初めて。沿道で見物
している連中、いったい何のマークかは、判らな
いでしょうね。魚河岸の若い者って思われるかも
ね。         
 この印半纏(しるしばんてん)は、羽織に似て
いますが、襠(まち)がなく衿を折り返さず、胸
紐がないのが特徴とされています。半纏が文献に
登場したのは天明年間。そのころは民間で主に防
寒用に用いられていたそうです。男女とも町屋で
半纏を着るようになったのは江戸後期の文化年間
からと言われています。特に職人の仕事着として
定着したのです。大店に出入りする大工・左官な
どの職人には、その家の苗字や紋、屋号などがつ
いた店(たな)半纏を、祝い事を始め、正月や盆
に配る習慣がありました。現在では職人の間で、
印半纏を見かけることは少なくなりましたが、江
戸消防記念会の鳶頭連中は、何かの行事のたびに
着ていますよ。特にここ浅草では、しょっちゅ見
かけるんですよね。あほまろ印の半纏も、今回は
しっかり目立っておりました。        
 浅草神社に、”七五三受付”の垂れ幕が飾られ
ました。地方によっては、日時も方法もまちまち
のお祝いでしたが、明治後期頃からは、鎮守の祭
りである霜月祭の十一月十五日、子どもの厄年と
される三歳・五歳・七歳のこの日に、地域の氏神
へ参詣して厄祓いを受けるようになったのです。
 七五三は、かつては武家社会で五歳の男児の「
袴着(はかまぎ)」と七歳の女児の「帯解き」を
祝っていた習慣だったそうです。今朝も、袴着の
男の子を連れた若夫婦が、お参りに訪れていまし
た。三歳・五歳・七歳の節目節目を無事に通過し
た子どもの成長を喜び、神仏に感謝し、幸多き将
来を祈る気持ちは、昔も今も変わりなく続いてい
るのですね。                
 菊花の定点観測:見た目は昨日と変わっていな
いのですが、先端の方を見ると、すでに枯れかけ
ているようです。係りの人が、そろそろ切ってあ
げなければ、ならないなぁ・・、って呟いてまし
たよ。枯れ始めた花は切らないと、周りに悪影響
を与えるそうです。不思議ですね。      
 「東京時代祭」が終わると、次の浅草の行事は
、「羽子板市」で新年を迎えるんですね。今年も
早かったですね・・・。