照葉
 明治三十三年日本でも私製葉書が許可され、その四年後に日露戦争の勃発により、
芸妓をモデルとした美人絵葉書が戦地に送られ、兵士たちを喜ばせた。そんな時代、
絵葉書の世界で名を馳せた一人の芸妓がいた。

 明治二十九年奈良生まれ。十二才の時に、父親に半ば強引に大阪南地祖右衛門町
富田屋に売られ、「千代葉」として舞妓に出る。十四才で常連客との叶わぬ恋で心
中未遂。傷心東京に出て、新橋叶屋から「照葉」として再び花柳界で名を馳せたの
は十六才の時であった。

 芸妓の美人絵葉書が世の中に出るようになったのは、日露戦争勝利を祝う明治三
十八年頃である。当時、東京・浅草や新橋、赤坂、神楽坂などの花街に次々と写真
館が開業し、宣伝のために土地の名妓を盛んに宣伝したのがきっかけとなった。

 そんな絵葉書美人に抜擢された照葉、空前の絵葉書ブームに相俟って彼女の絵葉
書は今も多く残っている。また、化粧品の宣伝や煙草のポスターにも採用され、当
時のアイドル的存在だったのであろう。

 三十九才で、京都祇王寺の庵主智照として仏門に入り、「花喰鳥」の自伝を残す。
父親に半ば強引に売られた照葉だったが、己を見失わず強く生きていく女「照葉」、
その壮絶な一生は、瀬戸内寂聴「女徳」のモデルにもなって今に伝えられている。
 
 ニキビがとれて色が白くなる「白麗水」の広告。“こんな顔でもこんなに白く”、
今では考えられない使用前・使用後の対比がユニークなポスター。