富田屋 八千代

 大阪南地、富田屋に「八千代」という芸妓さんがいた。明治の後半から、大正に
かけて名妓の名をほしいままにした芸妓さんであった。日本で初めて「喜劇」を演
じ有名になった曾我廼家五郎の自伝の中にも登場する。
 「今宮神社に繰り込んだ宝恵駕籠が帰ってくるのと出くわした。駕籠は、紅白の
布で派手に飾り立ててある。それを、駕籠かきをはじめ、太鼓持ちや男衆達が緋縮
緬の襦袢の肩肌を脱いで、駕籠に付き添い、ホイカゴ、ホイカゴと掛け声勇ましく
走ってくる。群集も、一緒に着いて走る。
 “宝恵駕籠がきたぞ。冨田屋の八千代が一番やで”駕籠の中には、高島田に白襟、
黒紋付姿の八千代が坐って、天井からぶら下がっている布紐に、しっかりとつかま
っている。一番駕籠に乗ることは、芸妓の最大の名誉であった
 曾我廼家五郎は、一番駕籠から降りてきた、島田の鬢をなびかせた八千代の美し
さに見惚れていたことが知れる。
 芸妓でありながら、その人間味あふれる客に対するもてなしに皆が心をひかれた
八千代。やがて菅楯彦(スガタテヒコ)画伯が求婚する。そして相思相愛の夫婦が誕
生した。けれど八千代は芸妓の出であるがゆえ、菅家の人達とはしっくりした間柄
とはいかなかった。それゆえに画伯の彼女に対する配慮は日毎に増した。「その時
の菅先生の気の使い方は、女の私らでも気のつかない深いもの」後に他の芸妓さん
たちが口を揃えて画伯を語っていた。

 菅楯彦(スガタテヒコ)の臨終の間際、「八千代の着物をかけてくれ」との最後の
望み、誰も聞き入れてくれなかったという。

 後に、名妓「富田屋八千代」、劇作家の郷田悳(ゴウダトク)によって、大阪の歌
舞伎座で悲劇の生涯として上演された。