平成21年6月19日(金) 旧暦5月27日先勝 - 死を考察 -
今朝のワンちゃんはこちらのページに移動しました。 ● 満開の堀切菖蒲園
『つくづくと』 浅草の街が朝靄に包まれています。朝靄が出る日は好天になる、テレビの天気予報で可愛いお天気おねえさんも言ってましたよ。今日は梅雨も中休み、久しぶりに晴天になるのでしょうね・・・。 「脳死は人の死か」なのでしょうか。人の命にかかわる重い問題を、論議が本格化して2カ月ほどで、委員会の審議もわずか9時間でした。医学の専門家で無い国会議員の多数決だけで、乱暴に決めてしまって良いのでしょうかね・・・。昨日の衆議院決議を巡って、今朝の新聞各社も賛否両論の反応を示しているようです。この法案が可決されることによって、「脳死は人の死」と法的に位置付けられてしまうのです。そうなると、植物人間になっても家族の意志で延命処置をされている方々に「死」が宣告されてしまうってことになるのです。そうして、死人に健康保険は適用されないということで、延命処置も「脳死」と判断された時点で打ち切られてしまうことになるのです。 あほまろの母親が札幌で脳梗塞で倒れ、幸いにも妹が札幌に住んでいたことで、定期的に病院を訪れてくれてきれたので、東京で仕事をするあほまろにとっての救いでした。最初の数年は有る程度の意識は有ったのですが、最後の2年ほどは、意識も無くなり寝たきり、ただ機械によって生かされている、いわゆる植物人間状態だったのです。こんな状態で生きている本人にとっても良いことなのでしょうか。母が入院していた8年間、兄妹でものすごく悩んだのです。絶対に考えてはいけない「尊厳死」、なんて言葉までが、真剣に脳裏に浮かんでしまったこともあったのです。しかし、今回は、尊厳が少しも尊厳的に扱われない日本において、拙速に法律ばかりを急いで良いのでしょうかね・・・。 アメリカで臓器移植をすると1億円の費用がかかります。しかし、日本で行うことが出来たら500万円ほどで済んでしまう。こんな経済的に恵まれる法律なら、諸手を挙げて賛成しなければいけない。もしこれが決まってしまったら、臓器売買、得体の知れない欲得勘定を狙った事件も多くなることでしょう。 人を合法的に「死」に追いやってしまうのが、死刑。死刑とは、「人殺し」ではなく、自らの人生をもって犯した罪に始末をつけることとされています。昔の「切腹」を、他力に委ねるようなことなのかな。きっと彼らは自らの意思で死ぬことを選択した訳では無いでしょう。彼らこそ、人間としての尊厳を保ったままで命をまっとうする方々なのです。それと同時に、回復の見込みのない状態や苦痛のひどい状態で生命維持装置に頼っている人よりも、臓器は健康じゃないのでしょうか。いやいや、そんな事を考えるのって危険ですね。 昨夜から、脳死・尊厳死・安楽死などの医学的見地の死、また、宗教的死、死刑と死刑制度、等々、死をとりまく様々な問題を悩んでしまいましたよ。おかげで、夢の中でも、元気だった頃の母親に叱られてしまいましたよ。
人間は、死んだらどうなるのかな・・・。 人間、幸福な時には、いつか「死」が来るてのを忘れているんですよね。 あほまろ家の宗派「曹洞宗」の開祖の道元様は、 「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちかうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなふ也」と解いています。 「仏の御いのち」か・・・。 おや、本堂の屋根の鉄骨が10本になりましたね。残すところ、後1本かな。 この鉄骨は、向かって左側から押し出すように組み立てられているのです。かなり重そうなので、てっきり油圧装置を取り付けていると思っていたのですが、今朝、浅草寺のお坊さん、昨日は人力でセ〜ノと動かしていたよと、教えてくれました。って、ことは、三角の足に車輪が付いているのでしょうね・・・。最後の一本が上がるところ、見てみたいな・・・。こんな大工事、いったい幾ら費用を要するのでしょう。これも総て信者からの「布施」でまかなっているのでしょうね。 そっか、あほまろは「死」を考えていたんだよね。 仏教の「布施」考えは、「強い者が弱い者を殺して食うのではなく、弱い者が強い者に自分のいのちを布施している」ってことが原点になっていると聞いたことがありました。例えると、「鹿は狼に殺されるのではなく、鹿のほうから狼にいのちの布施をしている」ってことなんだって。
自然界は、ほとけさまからいただいたいのちを互いに他に布施することによって共生している。 しかし、最近はその歯車が狂ってしまったンだよ。 その良い例が、ここ浅草寺境内に蜂を始めとする昆虫が住めなくなり、それによって桜の実までもが受粉できなくなってしまったんだよ。
仏教的に考えると、臓器移植も「死」の布施といえるのかな・・・。 でも、脳死者は生きている価値がほとんどない弱者、それを強者が殺して食べてよい、いわゆる「弱肉強食」を仏教の教えと結びつけるのはいけないよね。 布施が布施とされるのは、自然死でなければいけませんよね。強要された死は、仏教で禁じる「殺生」になってしまうのですから。 あぁ、困った困った、さて脳死の判定は如何に・・・。そんなこと考えているうちに開門してしまったよ。 お釈迦様は弟子から死後の世界の有無を質問された時、一切答えることなく沈黙を守っていたんだって。死後の無を説く人を、「断見外道(だんけんげどう)」と、誤った見解と教えているんだよ。 そんなことから、死後の世界なんての有るわけ無いよね。あほまろは、今日一日だけで良いので、幸せでありますように。明日の幸せは、明日お祈りに来ますよ。 死語の世界なんて考えないで、今の時間をしっかり生きているだけで幸せなんだよね。 それが「極楽浄土」。 「浄土」とは、死後の世界を考えさせないための方便ンだよね。 『本堂から宝蔵門』 もし、もしも科学で、死後の「無」や、霊の世界などが解明できたとしても、それが心に安らぎをもたらすことは絶対に無いでしょう。 死後を怖れるのは、深い人間性からくるものであって、お釈迦さまの教え通り、死後は「極楽浄土」なのです。 『本堂から宝蔵門の大提灯』 あぁ、また、バカなこと書いてしまったね。
死んだらお終い。生きているうちに、みんなで多いの楽しみましょうね。 おや、また何か・・・。 浅草寺のお坊さんに聞いてみても、わかんない。 ところで、幸せってどんなこと。 あほまろの幸せとは、毎日、愛犬と散歩が出来て、美味しいものが食べられて、美味しいお酒は禁酒しているので絶っていても、暑い日には缶ビールの一杯や五杯くらいだったら、お釈迦さまでも許してくれるよね。 それを毎日繰り返すのが、し・あ・わ・せ。 散歩のおかげで、健康だし。 毎日の日記の更新で、いくぶん頭も使っているし、 家族も友達にも恵まれているし、 この時期、好きな紫陽花だっていっぱい見られるしね。 今朝の猫ちゃん。 浅草神社の茅の輪の上、まるで火の見櫓みたいだね。 おい、何、撮ってるんだよ〜! 猫って、軽業師みたいだよね・・・。でも、この後、落っこちたよ。バツ悪そうに逃げてったけど・・・。 時々見かける、顔と尻尾の先だけ部分三毛猫君なんだよね。 奥山文化広場に、多いときは5匹の猫ちゃんが遊んでますよ。 でも、今朝はこの二匹だけ。あほまろは餌で慣れさせたので、ナナちゃんが居ても逃げないンだよ。
『今朝の浅草神社』
今朝の写真 OLYMPUS E-30 ZUIKO DIGITAL ED 7-14mm F4.0 ZUIKO DIGITAL ED 12-60mm F2.8-4.0 SWD ZUIKO DIGITAL ED 18-180mm F3.5-6.3 撮影枚数483枚