あほまろとモモちゃんの今朝の浅草日記

平成18年3月4日 (土) 旧暦2月5日赤口

- 浅草重ね地図 -

日記


『今朝の浅草』
 お天気は良いのですが冷え込んでいます。今朝のモモちゃんの写真を雷門を背景に撮ろうとお座りさせると、なんと寒さで震えているではありませんか。小刻みにブルブル、ブルブル、この寒さはお年寄りに応えるのです。写真でお解りの通り、モモちゃんに向かって右側の奥歯が抜けてしまい、ご覧の通り犬歯を唇の中に仕舞えなくなってしまったのです。いつもこのように犬歯が飛び出しているのでこの向きの写真を撮らないようにしていたのですが、いつも同じ向きじゃつまらないし、あえて反対側も撮ってみました。こんなみっともない写真、きっとモモちゃんは嫌がっているでしょうね。
 毎朝、雷門前には全面広告でお馴染みのラッピングバスが行き交っています。いつも見慣れているこのバスの宣伝もそろそろ見納めの時期になりましたね。とかいうと、都営バスから広告が無くなるかのようですが、無く成りはしません。毎年3月は年度末なので広告主が変わる時期だからです。毎年4月になると、新しい広告のバスがお目見えするってわけ。浅草の街並みを記録していると、必ず入ってくるラッピングバス。その広告も一緒に写し込むことによって、何時撮ったのかの時代考証にも役立つのです。
 最近のデジカメで撮った写真には撮影データーとして日時も一緒に記録されているので問題は無いのですが、過去にフイルムで撮ってバラバラになってしまった写真類の整理で役立つのが、看板や広告によって時代を判別できるのです。
 あほまろが収集整理をしている古い絵葉書も同様、写っている人物の服装はもちろんですが、商店の広告や
看板によって、かなり詳細な時代考証が可能になるのです。ですから、あほまろは必ずその時代、時期を感じさせる証拠も一緒に写し込むのが癖になってしまったようですね。
 毎朝、日記で公開している写真はその一部、朝だけじゃ無く日中も夕方も夜中だって撮っているのですよ。ちなみに、昨年一年間で撮った浅草の街並みはおよそ3万枚、ハードディスク300GBにもなっています。もちろんDVDでもバックアップしてますよ。今は当たり前の風景ですが、これが50年、100年後には貴重な資料となっていてくれると良いでしょうね。
 あほまろが始めて浅草でアルバイトをしたのが、昭和41年です。そのころから六区の興業街や漢音裏の街並みを撮り続けてはいましたが、住んでいたわけじゃ無いので、当然毎日撮ることはできません。いっそのこと住んでしまえ、と、浅草に住み着いてまだ7年目、わずか7年ですが、浅草の街並みは大きく変貌してしまいました。この調子であと3年間同じ街並みを記録し続け、浅草平成最後の10年間の記録として、「浅草重ね地図」を創ろうと思っております。
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『今朝の雷門』
 週末なので、今朝は観光客も多いようです。その証拠に、仲見世を歩いている人はみな旅行カバンを持っていたのですが、この写真じゃ判りませんね。その他に、歩きながら熱心に新聞を読んでいる人種が多くなるのも週末の浅草の特長なのです。
   

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『今朝の一写』
 あほまろが学生時代から営業をしている食堂で、昔はとっても安かった記憶が・・・。ショーウィンドウの中のメニューを見ると、チャーハン700円、ラーメン500円、タンメン700円。これって普通のお値段になってしまいましたね。でも、このようなショーケースと中のサンプルは昔となんら変わることは無いようです。その証拠に、ちょっと煤けてバッチイような・・・。食欲をそそるためにサンプルを出しているのでしょうけど、これじゃ逆効果じゃないのかな?
 それよりも、いつも気になっているのがショーウィンドウの中の天使像。“ここでラーメンを食べると幸せがやって来るよ”とでも言っているようですね。これも店主の拘りなのでしょうかね・・・。その下の段にはピンクの犬のぬいぐるみも。
  

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『今朝の境内』
 朝から観光客が多いでしょう。みなさん決まってこの場所で記念写真を撮っているのです。あほまろもしょっちゅうシャッターを押してと頼まれるのです。
   
 春の火災予防週間、いつも浅草神社の狛犬がPRに協力します。
   
 境内の白梅が満開になりました。
   
 特に意味は無いのですが、観光地浅草のインフラです。
   
 もう一枚。
    
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 浅草に直接関係の無いお話も多いですが。ここは、あほまろの呟きですかね。
『今朝の余談』
 昭和4年3月4日享年36才でお亡くなりになった新国劇の創立者、沢田正二郎さんのご命日です。新国劇を起こしてから12年間、1日も休演したことがなかったのに、2月に風邪から中耳炎を併発。手術のかいなくその短い生涯を閉じたのでした。
 最初は失敗続きで、座員も大量脱落するなど、世間やマスコミは挙って彼の失敗を笑ったのだったが、夏の大阪公演では映画にヒントを得た激しくスピード感ある立ち回りを採用して大成功。以後松竹の協力を得、また座付作者に行友李風(ゆきとも・りふう)を迎えて、「国定忠治」「月形半平太」を上演。さらに中里介山(なかざと・かいざん)原作の「大菩薩峠」を劇化するにおよんで人気が沸騰した。劇場はどこも超満員で、沢田が登場すると「沢正ッ」「大統領!」の声が掛かったそうだ。
 浅草の新仲見世からちょっと入った浅草公園劇場跡地に、「沢正」という居酒屋さんがあります。戦前沢田正二郎先生の活躍された、ゆかりの場所なので店主の島田さんがつけた屋号です。親の代からの新国劇ファンで、小学生の頃から五十年間も新国劇を見てきた店主、お客さんとのやりとりも芝居絡み、特に好きなのが「国定忠治」の山形屋のセリフだそうです。
 今夜は、新国劇縁の方々で賑わうのでしょうね。かつて、浅草は日本最大の娯楽の場として知られていました。沢正が活躍していた昭和初期には平日の人出が50万人、休日には100万人であったと記されています。話半分としても、あの狭いエリアにそれだけの人の数、現在の週末の新宿や渋谷の混雑以上だったのでしょうね。今では寂しく佇む浅草の繁華街、「新国劇」を語る以前に、そっちの方が「深刻」なのかも。
   


今朝の写真
CANON EOS-KissDN,CANON ZOOM 10-22 F3.5-4.5他
撮影枚数45枚