____________________________________ 連休中でも今日は平日ですよ。銀行も証券会社も主な企業はみんな普通に開店 の準備をしています。これってとっても当たり前のことなのに、銀行の前で掃除 をしているおじさんに小学生の子供が、“連休でも営業するの?”、なんて聞い ています。子供のとっては連休というのはみんながお休みしなければいけない日 と思っているのでしょうかね。 ------○------ 日本に初めてゴールデンウィークなんてのが登場したのは、5月3日の憲法記 念日が制定された昭和23年からなのです。これによって、4月29日の昭和天 皇誕生日と5月5日のこどもの日まで、間の日曜日を挟むと「飛び石連休」にな ったのが始まりなのです。 当時はまだ土曜日が休みなんて習慣も無く、お休みは暦の通りでした。これが 年によっては5月4日が日曜日に当たると飛び石が繋がって一気に三連休にもな ってしまうんです。今思い出しても嬉しかったなぁ〜、夏休みと冬休み以外で三 連休で休めるってのは、この瞬間だけだったんですよ。 昨日、浅草公会堂では終戦〜あれから60年コンサート「ああ上野駅物語」の イベントが開催されました。戦後も10年を過ぎた昭和30年代、中卒で上京し てきた少年少女が汗水を流して日本の高度成長を支え、今の経済大国を創りあげ てきたのです。 ------○------ 北海道のあほまろの故郷からも、まだ残雪が残る三月の終わり頃には大勢の人 たちが就職列車で東京に旅だっていきました。駅のホームには町長さんや校長先 生を始め、大勢の方が男は金ボタンの学生服、女はセーラー服姿のまだ幼い子供 たちを見送ったのです。当時あほまろは中学校のブラスバンド部、出発する汽車 の汽笛を合図に軍艦マーチを演奏して見送ったのでした。 隣に住んでいたお兄ちゃんも東京に就職しました。あほまろが大学で東京に出 て来た時、目黒の八百屋さんで働いているお兄ちゃんを訪ねたことがあります。 言葉も態度も東京人になっていたお兄ちゃん。休みが貰えないので、5年間一度 も故郷に帰っていないと言ってたのを覚えています。お兄ちゃんと一緒に目黒駅 の近くの食堂で牛丼をごちそうしてもらいました。あれが忘れもしないあほまろ の牛丼記念日だったのです。 お兄ちゃんは、休みの日はいつも上野駅の西郷さんのところで、東北本線を出 発する汽車を見ながら「ああ上野駅」を歌っていたそうです。そんな思い出を持 つ人達も、もう還暦を過ぎたお年寄りになってしまったんです。みんななで井沢 八郎と笹みどりさんと共に「ああ上野駅」を歌おう。上野駅に思い出のプレート が設置されて3年目、毎年参加者が増えているようですよ。 あほまろもせっかく招待券を貰っていたっていうのに、亀戸天神の藤の花に見 とれて忘れてしまいました。あ〜残念。 ------○------ 亀戸天神といえば「藤の花」。その美しさは安藤広重の錦絵にも描かれるほど 境内一面に様々な種類の藤の花が咲き乱れています。ちょうど、この連休中が盛 りとあって、普段は全く人影の無い境内がこの時期だけ観光客で埋まるのです。 江戸時代から藤の名所として親しまれている天神様ですが、終戦直前の大空襲 で、下町全部が焦土化した時に、亀戸天神も建造物と藤棚の全てを焼失してしま い、その後昭和30年ころより地元の人たちの努力によって昔の形に復興させた のです。しかし、本来は花丈が1メートル以上もある見事な藤だったようですが 、戦後60年を過ぎてようやく半分のサイズまで戻ってきたそうです。浮世絵で 見るような長い藤の花が見られるまで、あと10年以上の時間を要するのでしょ うね。 爽やかな春の日差しの下、そういわれれば昨年よりはちょっと長くなったよう にも感じた亀戸の藤の花でした。 ------○------ 経済大国日本を支えてきた団塊の世代は、もうすぐ定年を向かえつつあるので す。今となっては死語にも近い「飛び石連休」を楽しみに、一生懸命働いて来た 我々世代が今の世の中を創り上げてきたのは間違いの無い事実です。これからの 世の中は若い連中によってどのように変わっていくのでしょ。 長い休みだけを求めていては、藤棚同様、失うのは一瞬ですが元に戻すのには 長い年月を要するってことも知って欲しいですね。