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薄手のコートに着替えてわずか三日目だというのに寒さが舞い戻ってきてしま
いました。ちょと風が吹くと寒さでゾクゾクなんて感じてしまうのです。早く本
格的に暖かくなって欲しいですね。
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散歩の途中、けたたましいサイレンを鳴らした消防車が数台飛んでいきます。
また、どこかで火事があったのでしょう。消防車の行く方向に走っていくと、雷
門通りから一本入った路地にある旅館でボヤ騒ぎのようです。野次馬根性旺盛な
あほまろ、嫌がるモモちゃんを強引に引っ張って人をかき分けてロープ規制の真
ん前まで入っていったのです。
現場では、火はもちろん煙も見えません。ちょっとしたボヤなのでしょうね、
でもこの辺は木造の民家が密集している場所でもあり、集まった消防車は10台
を超える大騒動です。おまけに週末の場外馬券場に向かう連中のコースでもあり
、野次馬でいっぱい。現場を抜け出すこともできなくなってしまいました。この
騒動でモモちゃんは蹴られるは、踏みつけられそうになるは、しかたがないので
、だっこをしてなんとかその場を抜け出してきました。“だから嫌だっていった
のに”、身体を振るわせ、憎らしそうな顔つきであほまろを見上げるモモちゃん
でした。
火事騒ぎで意外なことに気付きました。毎日歩いているこの雷門通りですが、
あの有名な天麩羅屋さんのビルの正面を覆っていたエビの大看板が無いのです。
あれ、いつ無くなったのだろう・・・。毎日見慣れている町並みのこんな大きな
変化にも気付かず通り過ごしているのは、街の変化を注意深く観察しているつも
りを自負してきたあほまろ、まだ修行が足りないようですね。
帰ってから過去の写真を調べてみたのですが、特に代わり映えのしないこの辺
にカメラを向けたことが無いのです。これからは浅草寺の一角だけじゃ無く、町
並みも定点観測ポイントに入れておかなければいけないようですね。100円シ
ョップのシャッターの絵も変わってしまったようだし・・・。
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今日はお彼岸です。仏教の世界では川の両岸に例え、迷いや苦しみの果てない
この人間の世界を此岸(しがん)といい、それを超えた仏さまの安楽の世界を、
彼岸(ひがん)とよびました。
此岸から彼岸へ、仏教の発展とともにやがて、迷いや苦しみを超える仏道修行
の特別の期間を、春と秋の、昼夜平分の日に彼岸会を行うことになったのです。
ここ浅草寺支院の淡島堂では、彼岸の日に、万物の生命をいつくしみ、殺生を
戒める神事「放生会」の準備がなされております。昨年の秋の彼岸に作くられた
50個の真新しい手桶が並べられ、本堂のご本尊さまの前には魚を放す金魚すく
いの枠のようにビニールが貼られた木枠が置かれています。きっと、この中にド
ジョウやウナギなどを放すのでしょうね。本来は、魚鳥など捕獲された生類を山
河池水に放ちその生命を救う法会なのですが、こんなまねごとでも感謝の気持ち
だけは表すことができましょう。
私達の生命は、他の生命の犠牲の上に成り立っているのです。やむを得ず殺生
した生き物の霊を慰め、感謝の気持ちを捧げることによって、商売繁昌、家内安
全が保たれるのです。
そんな命の大切さをあらためて教えてくれるこの行事が行われる淡島堂の横で
、昨日一人の老人が野垂れ死にをしました。あほまろがいつものソバ屋さんで朝
食をとっている時、道路に座り込んでいるまるで生気の無い老人を警察官が叱っ
ていました。たぶん“こんなところに座っていてはいけない”とでも言っていた
のでしょう。遠くからそんな光景を見ていたあほまろにもその時はただの酔っぱ
らいにしか見えませんでした。その後、老人は淡島堂の草原に寝込んでしまった
まま、昼過ぎにあの世に旅立ったそうです。
命の大切さに感謝する「放生会」、それを行うお堂の庭でもドジョウやウナギ
以下の扱いしか受けられなく旅立っていった・・・。今朝、ソバ屋のおばちゃん
から、その話を聞いて、とっても不安になったのは、放生会が終わったあとの魚
たちの行方。まさか、参拝者全員が食する・・・、なんてこと考えたくないです
ね。
塀の隣の屋台で、イカ焼を焼く臭いが立ちこめている「放生会」の準備をする
淡島堂の境内でした。
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