2003年6月15日 日曜日

今朝の写真
SONY DSC-F707
撮影枚数36枚

浅草の顔

 人が挨拶を交わす。当たり前のことの
ようだが、以前千代田区に住んでいた時
には、モモちゃんとの散歩で、毎朝お逢
いする方と世間話をするわけじゃなし、
ましてや挨拶なんて交わしたことも無か
った。浅草に来て驚いたのは、知らない
人からも挨拶をされる。挨拶をされると
こっちも挨拶を返す。それが暫く続くと
、世間話に発展し、居酒屋なんかで顔を
合わせでもしたら、もう百年来の知り合
いって感じで酒を酌み交わす。
 「私が浅草に移住した理由」。今朝、
早朝の六区を歩いていて、昨年、浅草観
光連盟が主催する浅草文化講座、いとう
せいこう氏が語る浅草よもやま咄を思い
出しました。
 浅草では人が挨拶を交わす。いとう氏
は以前世田谷区に住んでおり、そこでは
殆ど挨拶を交わさない。浅草で挨拶をさ
れると、ここに居て良いんだよ、って言
われているような気がするので大変気持
ちが良い。
 そんな話をしていました。それは同感
ですね。引っ越してすぐの頃は、排他的
な街にいかに入り込もうかとの悩みを解
消してくれたのが、朝の挨拶だったので
す。また、いとう氏は、浅草の人は、人
を放っておいてくれる。何事も自分から
尋ねるまで放っておいてくれる・・・。
そんな浅草感も喋ってましたけど、それ
が良いのか悪いのか、挨拶の件とは裏腹
に排他感の表れじゃないんでしょうか。
 また、新しもの好きの集まる町。新し
いものを取り入れるが、昔からのものを
壊したりはしない。よく日本では新しい
ものを取り入れるために古いものは壊す
が、浅草は新しいものを取り入れつつ昔
からのものも残しておく・・・。
 そんなこともいってましたが、それは
大きな間違いなのです。浅草の人は変化
、いわゆる新しいことが嫌いなのです。
かといって、古い物を守り通す根性も無
いのです。だからどんど平均的な日本の
街になっていくのです。
 浅草の大正昭和初期までの顔は、高級
クラブのママさんのような気品溢れる顔
。戦後の混沌とした世相の中では、昔の
ような高級感は失われてはいましたが、
人情溢れる居酒屋の女将さんの顔が見え
ていたのです。そんな顔と安らぎを求め
てみんなが浅草にやってきました。いわ
ゆる、今でいう“下町”のイメージが確
率した頃でもありました。
 しかし、下町のイメージっていうのは
、一種の流行だったです。東京オリンピ
ックが終わって昭和40年代に入ると、
人々は、澁谷、新宿、池袋など、やたら
カタカナや横文字の看板で海外を臭わせ
る繁華街に足が向くようになるのです。
 それはちょうど、あほまろが遊びを覚
えた時代です。コンパ、ニューコンパ、
ゴーゴー喫茶、ジャズ喫茶が流行りまし
た。今では当たり前になったマスコミと
タイアップのお店の登場もこの頃です。
新宿の喫茶“ラセーヌ”、ジャズの“ラ
ンブル”など、店内のサテライトスタジ
オで、ラジオ放送の収録が行われ、それ
を目当ての若者で賑わったのです。
 もはや下町ブームは陰りをみせはじめ
、浅草の顔は、安キャバレーの年増の厚
化粧って顔になりつつあったのです。こ
の時期こそ、浅草の人間が頑張らなけれ
ばいけない時期だったのですが、浅草の
人は変化を嫌っていたのです。しかし、
自分たちは、変化を求めるのに、澁谷、
新宿、池袋、銀座と、遊びふけっていた
のかもしれません。浅草より楽しい街だ
な、なんて思ってたりもして・・・。
 ふと気付くと、浅草は余所者によって
、どんどん街の顔を変えてしまい、浅草
に人の手の届かない、ごくありふれた日
本の平均的な街に変身していたのです。
 今日の浅草の顔っていうと、ズタ袋の
中に菊の花を入れ、観音様にお参りをす
る老人の顔のようにも。かといって、巣
鴨のような個性も感じられない・・・。
 花屋さんの前を通りかかると、“今日
は15日だよ、サカキは要らないの”、
おばちゃんが声をかけてきました。前掛
けのポケットからさきイカを出してモモ
ちゃんに・・・。もちろん、知り合いじ
ゃないのですが。
 「なんとかしないと生涯根なし草でお
わってしまいそうだ。浅草よ、私をこの
ままつかまえておいてくれ。私はお前が
好きなのだ。」
(半村良『小説 浅草案内』より)