2002年2月19日 火曜日       

今朝の写真 
CANON EOS-D30
CANON ZOOM 17-35 F2.8
撮影枚数19枚

ロックの賑わい
 寒さもどんどん緩んできたような清々しい朝に
なった。こんな日はあほまろのマンションからも
富士山が綺麗に見えている。浅草田原町から見え
る富士山の見える日を好日と記した久保田万太郎
もきっと同じ富士山を見て育ったのだろう。もち
ろん当時は高い建物も無く晴れた日には二階の窓
からでも望むことができたようだ。劇作家、小説
家、俳人で有名な久保田万太郎は、明治二十二年
11月7日、浅草田原町に生まれる。父勘五郎、
母ふさともに養子だったが、生家は曾祖父の代か
ら袋物製造と販売をいとなむ商家。ほとんど祖母
の手で育てられ、幼い頃から祖母の芝居について
いった。府立三中(現在の両国高校)を落第。両
親は家業を嗣ぐように迫ったが、祖母のとりなし
で慶応義塾普通部に編入するも、ハイカラな級友
になじめず、俳句に打ちこみ、在学中は機関誌「
三田文学」に小説「朝顔」、戯曲「遊戯」を掲載
し文壇に登場する。以来、下町情緒を描く独自の
作風で、「末枯」「春泥」「市井人」などの作品
を著わした。昭和三十八年七十三歳で他界したが
、今は久保田万太郎を偲び、田原町の角地に生誕
の碑が建立されている。浅草に生まれ浅草が好き
で、「浅草風土記」には幼い頃暮らした浅草が克
明に描かれている。             
”竹馬やいろはにほへとちりぢりに”(浅草神社
境内の句碑)
 竹馬で遊んでいた子が夕暮れになって、それぞ
れの家に帰っていく様子を詠んでいる。また、家
路に向かってちりぢりになる様子は、一緒になっ
て遊んでいた竹馬の友が、大人になってから時間
が経つにつれ、それぞれの人生を歩んでいく様子
を暗示している。「いろはにほへと」がそれぞれ
の人生の暗喩であり、「いろはにほへとちり(ぬ
るを)」というつながりを保ちながら、下五で「
ちりぢりに」と締めくくっている。「いろは」を
踏まえた措辞が深い味わいを醸し出している秀句
といえよう。               
 今の浅草に住んでいると、この「いろはにほへ
とちりぢりに」の心境がとっても理解できる。リ
ニューアルと称して、古い物が新しい物に変わっ
ていく。華やかだった頃の浅草は万太郎想いとは
裏腹にその姿を日本中どこにでもあるような、コ
ンクリートの街に変えていくのだ。      
 そんな浅草が変わる前にとでも言いたげに、毎
日どこかのテレビ局が下町浅草の様子を撮影しに
来るのだが、いったい彼らは浅草の何を感じてい
るのだろう。すでに昔の繁華街の面影なんてなん
にも残っていないよ。ひたすら変化を避けてきた
浅草寺境内を除いてはね。