東京寄席さんぽ七月下席

 寄席の入場料は、はたして高いのか安いのか。はたまた、どのくらいが適正料金と言えるのかーー。落語好きが三人以上集まると、こんな非生産的な話題でも、池袋西口「純喫茶蔵王」で食べ放題のトーストを二度お代わりするぐらいの時間はもってしまうから面白い(といっても、執筆時点で僕はまだ「蔵王」に一度しか行ったことはないのであるが)。   

ま、寄席の適正値段なんてのは、懐具合や他の芸能との比較対照、あとはその日の虫の居所で、人それぞれが勝手に決めるもんだろう。ただひとつ言えるのことは、映画や他の演劇でも同じ事だろうが、人にもらった招待券でごっつあん見物するよりも、自腹で見た方がうれしいにつけ、腹立たしいにつけ、素直な感想がのこるというものだ。面白ければ「大枚はたいた甲斐があった」と満足するし、期待に反してずいぶんな内容だったときは、本当に素直な気持ちで「金返せーーーーーーーーーっ!」と絶叫出来る。これが無料チケットだったりすると、良くても悪くても「ま、こんなもんか」と、いまいちカタルシスのない感想しか出てこなかったりするのは、僕だけじゃないよね、ほんとに(一瞬自分だけかなと不安になるのがなさけない)。

で、僕の個人的な適正値段は、どのくらいか。僕の場合、寄席関係の換算レートは、すべて寄席定席を基準にしている。いうなれば「寄席本位制」なので、ここでもやっぱし寄席の入場料を基準に、他の落語会、地域寄席などの値段を考察(?)するわけだ。今の寄席の値段が、二千円台の後半。一時間で出てきてしまっては、ずいぶん高いが、昼夜通しなら、破格に安い。あまりに幅があるので、何を基準に考えればいいかわからないが、ここはひとまず、新宿末広亭の入場料=昼夜入れ替えなし、二千七百円は、「妥当」としたい。池袋の二千八百円は、本当はちょっとつらいんだけど、キャパも少ないことだし、なんとか合格。浅草は二千五百円(夏場の三千円はきついが)だからオーケーでしょ。あと残るは鈴本の「入れ替えなし二千五百円」なのだが、ここは「夜席の仲入後一本目が始まっちゃったら千円」という、うれしい割引があるという一点で、許しちゃおうっと。では、ホール落語など、他の落語会はどうするか。これは単純で、定席値段より安いところは、ほぼ「適正」(大ざっぱだなー)。高い方は、定席料金プラス千円までが、僕的には「あり」だと思っている。よーするに三千八百円が上限で、それよりよけいに取る会は、内容、メンツ、ニュース性、イベント度などで、よっぽどの付加価値がついていなければ、行かないと決めているのだ。

だから、七月末の「円朝祭」は行かない。ときどき行きたいなあという番組もあるのだが、あの会で五千円近くの入場料はうーむであるからして、やせ我慢をして、断固行かないのである。あとは、だれとはいわんが、出演者のビッグネームだけがたよりと思われる五千円前後の独演会が時たまあるが、それももちろん行かないぞ。無料チケットをもらったら?・・・それはケース・バイ・ケースでしょ、と、答えを濁すのが大人の対応というものですよね、皆の衆。ふふふ。

今年も七月の頭に円朝祭の告知をみて、「やっぱし行かないもんねー」と胸に誓っていたら、二十七日の「僕らの円朝祭」のチケットを買い忘れた。こちらは出演メンバーも面白く、値段も三千五百円と「あり」の会だったのに、「円朝祭」という言葉にまどわされ、「どーせ高いんでしょ」と料金の記載を確認していなかったのであったりして。当然のことながら、気がついたときには「満席」である。ダメもとで当日券ねらいという手もあるが、あの広いイイノホールが超満員で・・・なんて光景を思い出しただけで息苦しくなる。疲れそうなので、やめとくか。

てなことを、せこくせこく考えながら週末を過ごして、月曜日に函館の旅ルポを、なんとか脱稿。翌火曜日、仕事の打ち合わせをしながら、大手町・小洞天の「五目やわらかい焼きそば」を食べてしまったら、その日の午後の予定がぽっかり空いてしまった。

さあ、京都、行こう。これじゃ林家たい平のマクラじゃないか。もとい、さあ、寄席に行こう、である。さっそく、会社で使っているNECの「バリュースターなんたらかんたら」というマシンを起動して、落語協会のHPにある「本日の寄席」をチェックする。この「本日の寄席」をみると、当日の代演情報などがばっちりわかるので、急な寄席見物にはとっても便利。依然、落語協会のY形氏が「協会のHPを見てもらうのはうれしいけれど、ブックマークをフロントページにつけないで、『本日の寄席』のとこにしてる人が多いので、フロントの来場者カウンターの数字が伸びないんですよー」と嘆いていたが、それを聞いて以来、僕もブックマークを「本日の寄席」のとこにつけ変えた(Y形さん、ごめんねー)。芸協のHPでも、早く「本日の寄席」やってくでー。

さてはや、今日の定席のメンバーはいかに? ブックマークをクリックして、マニアの殿堂・池袋は・・・。たしか昼の部は円太郎のはずだが、何か変わったことは・・・。とととととと、トリが休みで、本日は喬太郎が代バネじゃないか。よしよし初いやつじゃ。時間は午後の一時をかなり回ってしまったが、今から急げば、二時半には到着するはずと、大手町から丸の内線に乗って池袋駅へ。昼下がりの強烈な日差しにあおられて元気なくだらだらあるくカップルを追い越しながら西口広場を横切って、池袋演芸場の階段を駆け下りたのだった。それにしても、仕事の時より、フットワークが軽いのは、どうしたことでございましょう。ははは。

      ▲ ■ ◆

七月二十四日(火)<池袋・昼席>

 菊春:初天神

 小里ん:黄金の大黒

 にゃん子と金魚:漫才

 志ん輔:小言念仏

 市馬:転宅

  仲入

 玉の輔:短命

 川柳:くたばれ山男

 とし松:曲独楽

 主任=喬太郎:猫久(円太郎の代バネ)

● ▲ ■ ◆

  菊春、小里んと地味な人が続いたせいか、にゃん子と金魚の登場で、高座がいきなり明るくなった。派手なブルーのミニドレスで、黒くて小さい金魚が動く動く。それを「フーゾク顔」(BY金魚)のにゃん子が甲高い声で突っ込む突っ込む。ええいっ、うるせー!しかし、このコンビ、最近面白くなったよね。うるさいのは変わらないけど。

 「アタシね、ほんとは百八十センチなのよ。池袋に来るときは、家に五十センチ置いて来るんだから」と胸を張る金魚は、ほんとは何センチなんだろう。円歌会長よりは少しあるかな??

 本日のネタは「フリーター談議」とでもいうのだろうか。

「金魚ちゃん、フリーターって知ってる?」

「知ってる知ってる、冷蔵庫の氷作るところ」

「それはフリーザー!定職を持たずにアルバイトで生計立ててる人の事よ」

「アラー、あたしたちみたいねー」

「なに言ってんのよ!あたしたちは本職じゃないの!」

「あら、アタシはアルバイトよ」

 と、また胸を張る金魚。このあたりから話の筋はどうでも良くなってきて、いきなり金魚のワンマンショーになったりして。

「にゃん子ちゃんは一応、かわいいわよね。生娘じゃないけど」

「アタシはね、早食いが得意・・・あ、間違えた、のみ込みが早いんだから」

「アー・ユー・レディー?あなたは女性ですか?」

「ハワイユー?あなたはハワイですか?」

「アイム・ハッピー。私は法被です」

 てな感じで、意味もなく盛り上がったところに、志ん輔が登場。この人もむやみにテンションが高いはず・・・・ではないな、今日は。

「昼席もいいですね・・・。そぞろなところが・・・。まだまだ日が長いですからね、お互いにこれからどこへ行こうか考えたりして。・・・それにしても、お客さん、よく来ますね。まだ三時回ったとこですよ。ことわっときますけど、アタシは働いてるんです」

 ローテンションのまま、だらだらマクラが続いていく。こんな調子で聴いていると、船もいいが一日乗ってると、退屈で退屈で、あーあ、ならねえと「あくび指南」に入ると思うじゃありませんか、若だんな(って、だれに言ってるんだ)。ところが、ネタは小言念仏。「なむあみだー、バンバン(木魚をたたく音)」を繰り返しているうちに元気が出てきたようで、紛れ込んできたハエを叩いたり、子供から菓子をもらうなど、普段はあまりやらないシーンを丁寧に演じてくれた。

続く市馬が、にこやかな笑顔で「ようこそ、我々の誇る池袋演芸場へ」なんて言うので、場内から失笑が起こる。

「アハハじゃありませんよ。昔の池袋(演芸場)でねえ、先代の馬楽師匠が出番になっても現れない。こねーなーって、探しに行ったら、二階の階段のところで『くらびれたー』って。あとね、冷房が寒いの寒くないの。上手の脇にあるエアコンが、スイッチ入れると「ドンッ」って煙が出るんですよ。当時の本橋支配人が『客が十人入らないうちうはスイッチ入れるな』って。だから年に二度しかスイッチが入らない。今考えると夢のような・・・、ま、やな夢ですけど・・」

気を取り直して、泥棒のマクラを。

「落語に出てくる泥棒はろくなもんじゃない。『ふてえやつだ。名前は?』『石川五右衛門の弟子でナシえもん』『本名は?』『長十郎です』『いつやった』『二十世紀』って、・・・・やらない方がよかった」と、ぼやきながら「転宅」へ入っていく。

「「浜町辺の妾宅で、黒板塀に見越しの松・・。往年の大歌手・春日八郎さんのシット曲(ほんとにそう言ってる)同じですな」って、「歌う馬頭観音」としては、ここで「お富さん」歌いたいんだろうな。古典だからできないけど。

仲入後は、玉の輔から。この人の「短命」は始めてい聴くけど、肩の力が抜けた自然体の高座で、この噺の嫌みな部分が目立たない、いい出来だ。

「それでその、おかみさんの器量はいいのかい?」

「みんなの評判ですよ。ありゃ小野妹子じゃないかって」

「そりゃ小野小町だろ」

「じゃ妹だ」

「ありゃ男だよ」

「ははあ、男なのに帰国子女、って感じ?」

このあたり、とんとんと運びがよく、スマートな玉の輔の芸風が生きている。後半、かみさんとのからみも、さらりとこなして、臭みもない。この噺、むいてるんじゃないの?

久しぶりに見た川柳の表情がどこか変だ。よくみると、鼻の下に白いひげがポヨポヨと生えているではないか。にあわねー。

「今日はナンの話でいこうかなって、たいしてないんだけどね(客がうんうんと頷いている)。昨日は山の話をしたから、今日は海で行くか」と、始めたのに、結局山の話になってしまった。軍歌はなくて、かわりに「雪山賛歌」だ。

「これの元歌はねえ、オーマイダーリン、オーマイダーリン・・、私がやると全部オーマイダーリンになっちゃう。三平さんの『枯葉』と同じだね。(ゲラゲラと笑う客に向かって)笑ってるねえ、三平さんの『枯葉』、知ってるのかあ」

「『おれたちゃ町には住めないからに』の『からに』がイナカ弁だよね。『からに』なんて言う?これ聴いて何の感じもしないのはダメだよー」

絶好調のうちに、「『くたばれ山男』というお笑いで」と言って高座を下りた。こういう題名だったんだー。

さてさてトリは、代バネの喬太郎である。さて、こういうシチュエーションでは、この天才はどんな噺をするのだろう。ディープな古典か、はちゃめちゃな新作か、と身を乗り出して聴いていたら、マクラもそこそこに「猫久」が始まった。

ここで初めて気がついたのだが、昨日の晩、「東京かわら版」をみていたら、落語研究会に、喬太郎が「猫久」を出していた。今日は研究会の当日、してみると、池袋の昼トリは、格好の「お・け・い・こ」じゃないの。あらためて高座を見ると、喬太郎は真剣そのもの。こっちもつられて一心に聴いてしまったが、古典を演じる時の喬太郎は、ほんとに口調がなめらかだ。古典は体で覚えているが、新作は手探りというか、まず独特の作品世界があって、そこに台詞を当てはめていくというのが、おそらく喬太郎落語なのだろう。ただ、新作落語はその発想、ギャグ、当意即妙の変化などを含めて、その素晴らしさ(くだらなさの場合もあるが)に感動すら覚えるのだが、古典落語に関しては「達者だな」という感想にとどまってしまう。演じるネタが渋すぎるというのもあるだが、喬太郎の中では、新作は本業、古典は趣味なのではないか、という感じがぬぐえないのだが。

     ● ▲ ■ ◆

そういえば、池袋の昼席に、面白い人がいた。「長崎もってこーい寄席」の席亭であるM田さんが、楽しそうに見物しているのだ。M田さんは、この間の長崎出張の時にいろいろいとお世話になったのだが、その時「夏休み、都市対抗野球に勤務先のチームが出場するので、その応援を兼ねて東京に行きます。そうなったら、落語三昧ですよー」と話していた。彼が池袋にいると言うことは・・・。

「前田さん、お久しぶり。やっぱり来てたんですね」

「おやおや、こんなとこで・・・。先週末から八泊九日で、野球の応援以外は昼夜全部落語会に行く予定なんですよ」

「・・・・・(無言)」

「今日はこれから落語研究会に行きます。権太楼師匠の子別れ・中、楽しみですねえ。ながいさんは行かれないんですか?」

「あ、いや、僕は仕事があるし」

「これから仕事ですか?もう夕方ですよ」

前田さんのうろんな視線を避けつつ、本当に(ここ強調しとこっと)会社に戻る。これから次週の紙面の組上がるので、刷りのチェックをしなければならない。会社の夜は長いのであった。

というような、あわただしい再会をしたM田さんと、再び巡り合ったのは、三日後の鈴本昼席だった。仲入後に、喬太郎、権太楼と出てトリが花緑。権太楼崇拝者のM田さんだから、いるだろうか。あるいは夜に権太楼がトリをつとめる「僕らの円朝祭」の方へ行くのかなと場内を見渡したら、いた。前から四番目ぐらいの中程、ルンルン(ふるー)だった三日前に比べて、すこし元気がないように見えるのは、疲れだろうか?おっとと、客席ばかり見ていると、また「不審人物」なんて言われちゃうな。「定点観測」をやっていたころの癖で、いまだに入場者を数えたり客の動向をチェックしたりと、挙動不審な行動に走って、顔見知りにからかわれているのだ。さあ、視線を高座に戻そう。おっ、あのやる気のないというか、けだるそうな風情の出は、喜多八じゃん。

     ● ▲ ■ ◆

七月二十七日(金)<鈴本・昼席>

 さん福:五目講釈

喜多八:旅行日記

 伯楽:あくび指南

 ゆめじうたじ:漫才

 小せん:かわり目

 三語楼:家見舞

 遊平かほり:漫才

 扇橋:加賀の千代

 仲入

 喬太郎:漫談

 権太楼:厩火事

 紋之助

 主任=花緑:子別れ・中・下

     ● ▲ ■ ◆

   「待ってました!」と声がかかるのは、浅い出番では珍しい。中高年の男性を中心に、最近、喜多八がひいきという人が着実に増えている。古典の本格派で、独特の雰囲気が師匠の小三治をほうふつとさせる。落語好きなら、嫌いになる道理のない人なのだが、寄席ではなんだか、ヘンな噺ばかり聞かされる。「噺家の夢」「竹の子」ときて、今日は「旅行日記」である。他の人のやらない噺で印象づけようというのだろうか。あえて奇をてらわなくても、フツーの滑稽噺で十分通じる人だと思うのだが。とにかく、今日は「旅行日記」だ。怪しいトリ鍋、豚鍋を食わす田舎宿の主人が、やたら大きな声で「あんれまっ!」を繰り返すのが可笑しい。ん?こんなにでかい声が出るのに、「アタシは虚弱体質」なの?

 土用の丑の日直後なので、ゆめじ・うたじのネタは当然、「鰻は和食かようしょくか」である。うたじがうれしそうに鰻の蘊蓄を語る様は何度聴いても楽しいが、導入部の「鰻屋行ったんですよ」「何しに?」なんてやりとりの慣れ親しんだ間がいいんだよなあ。

 小せんの「かわり目」は、人力車のくだり抜き。

「あなた、また、どこでそんなに飲んできたの?」

「そんなにじゃないよ、一杯だけ。今日は八十六人の宴会で、みんなから一杯ずつもらったんだ」

なるほど、苦しい言い訳だ。

「水戸君が持ってきた納豆が」

「いただきました」

「静岡君が持ってきたワサビ漬けは」

「いただきました」

「小田原君が持ってきた」まで聴いたところで、隣の席のおじさんが「かまぼこ」とつぶやいた。

久々に見た三語楼の「家見舞」。口調に癖がなく、安心して聴けるが、今ひとつ盛り上がらないのは、どうしたことか。もしかしたら、原因の一つは、彼の表情にあるかもしれない。長屋の若い者の、たわいないやりとりがほとんどの噺なのに、三語楼の顔に笑顔がない。泣かず笑わず、無表情では、長屋ばなしの和やかな雰囲気は伝わってこない。

 遊平・かほりの夫婦漫才。今日はかほりの早口が、いつもよりややおとなし目かな?とはいっても、亭主への鋭いつっこみは相変わらす。遊平が口を挟もうとすると、「よけいなこと、しゃべんないの!医者に止められてんだから」。楽屋でもこんな調子だという噂だが・・・。

 仲入を挟んで、食いつきは喬太郎。ほんとによく寄席に出ている。マクラはおなじみの「池袋名所案内」だ。

 「西口のサルビア、なぜアイスコーヒーを、キリンの大ジョッキで出すのか。条件反射で、取っ手を持って、グビグビ一気飲みしちゃうじゃないか!」なんてのがしばらく続いて、ああなんだ、今日はマクラだけか、とパンフに目を落としてつい考え事をしてしまった。と、とたんに、高座で「長井っ!」と二度も僕の名を呼ぶ物がいる呼ばれてしまった。呼んだのはもちろん喬太郎だが、彼のマクラに僕が出てくるわけはない。びっくりして顔を上げたら、テレビドラマと現実の区別が付かなくなった女性徒と教師の会話、「おい、○○」「呼び捨てにしないで!」「何言ってんだ、授業だろ。とにかく、ここ読んで見ろ」「読めない(と泣き崩れる)」「何で教科書が読めないんだ」っていうとこの「○○」に、僕の名前をつかってやんの。しかし、薄暗い鈴本の客席の真ん中あたりにいて、しかもよそ見をしてる僕に、どうして気がつくのだろう。喬太郎、おそるべしと高座に注目したところ、 「いつまでもこんな話しててもしょうがないので、三遊亭円朝作『牡丹灯籠』をやろうと思ったら、お時間でございます」と、あっさり下りてしまった。やっぱし、喬太郎恐るべしである。

 ひざ前の権太楼が「厩火事」をたっぷりやってくれた。面白かったが、どっと疲れてしまい、紋之助の曲独楽の時間、ロビーで休んでいたら、さっきまで高座にいたはずの権太楼がもう出てきた。この人の着替えはとにかく早いのだ。

「師匠、お疲れさまです」

「おや、今日はどうしたの?」

「どうしたのって・・・。これからイイノホール(で『ぼくらの円朝祭』)ですね」

「うん、芝浜やるんだけどね、なんか疲れちゃったから、一度家に帰ろうと思って。今夜の芝浜は、ちょっとソフトな感じになるかなあ」

「ところで、日曜のおさらい会、『幽霊の辻』じゃ、おさらいという感じがしないけど」

「うん、ちょっと趣向があってさあ。でも、九月の読売落語会(仲入に出演予定なのだ)では、ふつーの『辻』をやるからね。あ、あと日曜のもう一席、『夢の酒』だしてたけど、『船徳』にするよ。んじゃ」

 話が長くなった。あわてて客席に戻るのと、トリの花緑の出がほぼ一緒だったりして。権太楼の力演に刺激されたか、花緑のネタは、子別れの「中」である。こないだの落語研究会で権太楼がこのネタを演じて話題になっていたが、定席のトリで渋い「中」だけというのは珍しい。さすがに花緑、意欲的だなあと感心していたら、熊さん夫婦が別れたところで、話が終わらない。「子別れ」、「中」と「下」の通しだったのである。いやあ、驚いた驚いた。で、出来はどうか。けれんなし、真っ向ストレート勝負という花緑の特長がよく出た、気持ちのいい高座だった。熊さんやおかみさんを丁寧に描けた反面、子供の描き方がやや類型的だったような気もするが、まずは水準以上の「子別れ」だった。

 昼席を堪能して外に出ると、通りが何やら騒がしい。みると、隣の「酒悦」が、「鈴本の入場者の皆様に粗品として福神漬を進呈」と呼びかけている。僕ももらおうかなと考えたが、手ぶらで福神漬さげて会社に戻る図てえのは、なんともしまりがなさそうなので、やむなく断念した。あ、そうだM田さんがいたんだ。ここで出待ちしよう。

「(僕の姿をみつけて)あらら、ながいさん、また会えましたね」

「この前より、なんか元気がないんじゃないですか」

「いやね、ここんとこ毎日、昼夜寄席に座ってたら、腰にぴりっと来てね、急に体を曲げると痛いんですよ」

「職業病ですかねー。じゃ、今夜の寄席見物は中止ですか?」

「何言ってんですか!今夜は『ぼくらの円朝祭』じゃないですか。権太楼師匠の『芝浜』ですよ!これから直行ですよ。ながいさんは行かないんですか」

「いやあの、ちょっちチケット買いそびれて」

 M田さんは会場のイイノホールまで、JR新橋経由で行くという。それなら千代田線で霞ヶ関駅に出た方が近いので、湯島駅まで案内した。腰をさすりながら地下鉄に乗るM田さん。がんばれ、「八泊九日寄席の旅」貫徹まで、あと二日である。

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 土曜日は、隅田川の花火大会の当日だ。今年は浅草雷門のマンション住まいというK藤宅で見物の予定だったが、主催者のK藤さんが心筋梗塞で週明けに入院する騒ぎがおこり、花火どころではなくなった。最近、僕の周囲では心筋梗塞がちょっとしたブーム(?)になっている。仲間が増えるのはいいことだが、心筋梗塞となると、ねえ。

 というわけで土曜日は自宅休養。鋭気を養ったところで、翌日の日曜日は池袋演芸場に出撃することにした。いわずと知れた「権太楼日曜朝のおさらい会」である。ここ数か月、あまりの混雑ぶりに恐れをなして、ごぶさた続き。モギリのところで「お久しぶりね~」とおかみさんに声をかけられて中に入る。と、客席でM田さんが手を振っている。僕のために席を取っていてくれたらしいのだが、この会じゃ席取りは御法度だったような・・・。「夕方長崎に帰るんですよ。荷物?楽屋に置かしてもらってるよ」なんて言っているから、M田さんは別格なんだろう。

「どうですか、八泊九日寄席の旅、最終日を迎えた感想は?」

「こんなことやったの、生まれて初めてだからね、夢のような毎日だったなあ。でも、あんまりたくさん見たり聞いたりしたので、誰がいつどこで何をやったか、こんがらがっちゃって、よくわかんないんですよ」

「長崎に帰って、まず何をやるつもりですか?」

「うん、あと一日休暇が残っているからね、病院行って、腰を診てもらうつもりです」

 腰の状態は相変わらずのようだ。ちゃんと仕事に復帰できるのか、心配だなあ。

     ● ▲ ■ ◆

七月二十九日(日)<権太楼日曜朝のおさらい会(池袋)>

 太助:金明竹

 権太楼:幽霊の辻・船徳

      ▲ ■ ◆

 「おさらい会」の前座は、権太楼一門がかわりばんこに出演する。今日は太助の出番だが、「金明竹」、よくさらっているようで、安心して聴けた。師匠にも通じる、独特のあくの強さもあるし、太助は着実に成長しているようだ。もっとも、この会の前座は、次の師匠のマクラでネタにされ、けちょんけちょんにやっつけられるのが恒例である。今日ももちろん例外ではなく「『金明竹』をね、『寿限無』みたいな、単なる口慣らしの噺だとおもってやると、(楽屋の方を向いて)ああいう『金明竹』になるんです」と、けさ懸けにばっさりやられいた。

 さて、主役の権太楼は、途中、解説を交えながら、大ネタ二席を一気に演じきった。まずは「幽霊の辻」。数年前に手がけてから、磨きに磨き、今や権太楼十八番ともいえるネタになった。本家の桂枝雀亡き後は、権太楼の専売特許といってもいい状態なのに、なんでわざわざ「おさらい」する必要があるのだろうと、客席の権太楼ファンはみんながみんな思ったはずだ。金曜の鈴本昼席で権太楼がもらした「ちょっとした工夫」は、サゲであった。たしかに、「幽霊の辻」は、内容の練り混み具合に比べて、もうひとつサゲが決まらず、今は「お化け屋敷」オチで落ち着いているが、権太楼はまだ満足していないのだ。この日の「サゲ」は、いわゆる「夢オチ」。サゲを言い終わった権太楼の顔に「これじゃダメ」と書いてあった。「夢で終えちゃうと、ああ、そんなもんかなと納得するけど、それだけなんですよ」と、妙に冷静な権太楼。おそらく、「夢オチはダメ」と思いつつ捨てられないため、高座で演じて「ダメ」なのを確認したかったということなのだろう。しかし、あれだけ練って、ほとんどすべての客が「『辻』はいい」と口をそろえるネタに、まだ満足しない権太楼の料簡は、くやしいけどカッコいいのであった。

続けて演じた「船徳」は、柳家型、というより「小さん」型なのだろう。

「小さん師匠は、読売のインタビューなんかで、『船徳』の若だんなの料簡が気にくわねえ、みたいなことを言ってるけど、このネタはね、小さん師匠がやってみたものの、結局自分のものにしきれなかったネタなんだよ」

その「小さん」型。若だんなが棹を頭上で何度も振り回すしぐさがあったり、いわゆる黒門町のものとは明らかに違うものだが、権太楼のキャラクターもあるのだろう、コミカルな味は十分に出ているとはいうものの、主役の徳さんの若々しさ、色気といったものがいまいち伝わってこない。「船徳」という噺には、明るさ、華やかさが欠かせないと思うのは、文楽型にとらわれた僕の目の曇りだろうか。

      ▲ ■ ◆

問題作(?)二つをじっくり聴いて、頭の中はいっぱいになったが、腹が減った。夕方に長崎に帰るというM田さんと食事でもしようかと思っていたら、権太楼一家も同じことを考えていたらしい。「どうしよう」と迷っているM田さんの背中を、「せっかくだから、師匠と飯食って」と押し出して、客席にいた「客席王」(へんな言い方になったが)ちばさんと、「週五日」S沢さんを誘って、芸術劇場脇の「台湾小調」へ。店のおねーさんが注文したランチのスープをこぼすというハプニングがあったが、おかげでデザートの杏仁豆腐がサービスになった。これが意外な美味だったので、楽しい会食になった。こぼれたミルクは盆には戻らないが、杏仁豆腐は旨い。これではことわざにならんな。

腹が落ち着いたら、もうちょっと落語を聴きたくなった。松戸の実家に里帰り(三郷の僕の家より近いのに里帰りとは!)するというちばさんと分かれて、どうしようかと迷うS沢さんを強引に誘って、浅草演芸ホールへ。昼のトリを勤める歌武蔵に、最近がぜん興味がわいてきたのに、なかなか見るチャンスがない。今日はみちゃうもんねー。

      ▲ ■ ◆

七月二十九日(日)<浅草・昼席>

 彦いち:みんな知ってる

 小円歌:両国風景・奴さん

 小えん治:肥瓶

 小せん:よっぱらい

 仙三郎・仙一:太神楽

 主任=歌武蔵:胴切り

 ○夜席

 いち五:たらちね

 朝之助:一目上がり

 さん生:寄合酒

 遊平かほり:漫才

 一朝:桃太郎

 円菊:まんじゅう恐い

 紋之助:曲独楽

 さん喬:天狗裁き

      ● ▲ ■ ◆

 日曜日の浅草は、さすがによく入っている。今は下席、悪名高い(?)読売の無料チケットのせいだろうか?

 食いつきの彦いちが、ウケまくっている。けっこう前の新作のようだが、わかりやすく、笑いどころも多いので、ビギナー向きといえるだろうか。以前は強引な芸風で客をとまどわせることもあった彦いちだが、いつの間にか、すっかり自信をつけたようで、堂々として、笑いのつぼもはずさない。食いつきの見本のような高座だった。

 小円歌のきれいな「奴さん」の後、小えん治(漢字が出ないよー)のマクラが汚かった。

「お屋敷の奥様がきれい好きで、厠を使った後で手を洗わないのは汚いと、女中を何人も首にした。そこに新しい女中が来たが、この人がきれい好きで、厠の後はいつもやたら丁寧に手を洗っている。すっかり気に入った奥様は、この女中を重用していたが、ある時、厠から出てきた女中が手を洗わない。『お前、どうして今日は手を洗わないんだい』『今日はいいんです。紙を使いましたから』・・・」

 きったねー、と客席のあちこちで顔を見合わせている。小えん治曰く「汚い言葉を一切使わないのに、ものすごく汚い話」だと。これ、どっかで使いたいなー。

 お目当ての昼トリ、歌武蔵は、めずらしく「胴切り」なんてネタを出してきた。小咄を無理やり長くしたような噺だから、やりようで面白くもつまらなくもなる。こういう噺をトリに持ってくる歌武蔵は、快調ということだろう。そういえば、普段の出番より多少時間があるにも関わらず、今日の歌武蔵は、「自分は相撲取り出身で」というマクラをふらなかった。言えば必ず、歌武蔵の巨体を見上げながら、客は「おーっ」と感心する。客席が暖まり、演者への親近感が増し、噺の本題に入りやすくなる。いいことづくめのマクラを使わない歌武蔵に、自分の芸への強い自信を感じた。

 飛び道具を使わず、噺だけで勝負する心意気やよし。大きな体を器用に動かす、漫画チックな動作で笑わせながら、辻斬りで真っ二つにされた胴と足が別々の所に奉公するという、考えてみれば理不尽な噺の「無理」を感じさせず、とんとん軽快に演じきった。今、歌武蔵は聴きどきである。

昼の部が終わって、短い休憩。直ぐに夜の部の前座、いち五が登場した。さて、どこまで見ようかと、プログラムを子細に検討。結論が出たので、隣の席で同じようにプログラムを見ているS沢さんに話しかけた。

「さん喬さんのとこまで見よう」

「やっぱり同じこと、考えてたんですね」

鮮やかな意見の一致。六時上がりのさん喬の「天狗裁き」は、息のあったジャムセッションのように、さまざまな音が仲良く混じり合って、心地よい。落語三昧の休日を、うきうきとした気分で締めくくってくれた。

      ▲ ■ ◆

大の月の楽しみは、定席の余一会である。今月はバラエティーに富んだ企画が並んだ。、池袋では芸協・立川流の「二派連合落語会」、鈴本は「伯楽独演会」だし、末広亭は、あの坊屋三郎も出演する「ボーイズバラエティー」で、我が社のFデスクが同級生(!)のチャーリーカンパニーを応援に行くという。で、僕がどこに行ったかというと、これが「余一会」ではなくって、昇太の「古典とわたし」なのであった。僕はどういうわけか、昇太の古典が大好きで、この人は新作落語なんてやらずに古典に専念すべきである、なんちゅー、ファンが怒るような持論を持っているのであるのだよ、実は。だから、「古典とわたし」は、ここ数年皆勤賞。これがある日は、余一会には行けないのであった。

      ▲ ■ ◆

七月三十一日(火)<古典とわたし>

(紀伊国屋サザンシアター)

 昇太:前説

 喬太郎:初天神

 昇太:不動坊・マサコ

  仲入

 紋之助:曲独楽

 昇太:船徳

      ▲ ■ ◆

 補助椅子が出る大入りなのは、補助椅子にすわってる僕には直ぐわかる。いやもう、ほんとによく入ってるんだよなあ。ただでさえ狭いロビーは老若男女の話し声と紫煙で息苦しいほど。これなら客席でじっとしてたほうがまだましなのだ。

 「ここんとこ、自分には似合わないような、人情ものが続いたので、今日は、僕の芸はそんなんじゃないんだという、わーっと笑える、夏の噺をして、その後旨いビールをぐわーっと飲みたいという、ま、これは僕がそう思ってるんですけど。とにかく、わーっと笑って、後は自由解散です」

 なんじゃそりゃ。いつもながらの、本人によるだらだらした前説がいつの間にか終わって、今日の前座の出番。だれだと思ったら喬太郎。ここんとこ、いろんなところで会うなあ。僕がいろんなとこに行ってることもあるが。

「きょうはですね、協会のみんで成田山に行って寄り合いをするという・・・。夕方に昇太兄さんの会があるのであんまり飲まないようにと思ったんですが、飲んじゃいました。今日はやる気がしません」なんてぐずぐずいいながら、「初天神」へ。「たっぷり飲んだ」アルコールは、もう飛んでしまったのか、トントンと快調に進む。団子を食うしぐさをたっぷりやって「こういうことでさえ、昇太さんはできない」とぽつりつぶやく。ぎゃはははははと満員の会場が大爆笑である。

 「今日はだーっと行く」という昇太は、マクラもそこそこに「不動坊」へ。冒頭、吉さんが大家の家に呼ばれてくると、中で大家が団子を食べている。ぎゃははははは、うまいじゃんと、感心しつつ、場内再び大爆笑である。

 前半の吉さんの一人キ○○イがウケ過ぎたせいか、後半の振られ三人男プラス幽霊のドタバタシーンがやや不発気味。複数人物の演じ訳が、昇太の数少ない欠点なのだと、僕はひそかに思っているのだが、どうだろうか、連れのアナタ(って、誰に言ってんだか)。

 僕がそんな風にケチをつけてることは知る由もない昇太は、大サービスで、「不動坊」に続けて、「自作で唯一の新作怪談」という「マサコ」をおまけに付ける出血サービスである。

仲入を挟んで「ひざ」の紋之助は、独楽を回しながら、団子を食べるしぐさを始めるではないか。ぎゃははははははは、場内三たび大爆笑。見事なサインプレー、なのかな?

 さて、トリはなんと「船徳」だったのね。一週間以内に、権太楼と昇太で「船徳」を聴くことができた僕らは幸運なのだろう、きっと。扇子を少しねじりながら前後に動かし、櫓の音を出す演出に、客が「おおおっ」と驚いている。昇太の演じる徳さんには、権太楼のにはない、若さと色気に満ちあふれているが、権太楼の力強さもない。大ネタを聴いているという充実感には欠けるが、ふわふわと軽い「船徳」も、これはこれでありだなと思いつつ聴いていると、のんびりと優しい気分になった。

 久々に、落語を聴いたなという十日間。でも仕事もしてたんだよ、僕。

 

続く

 


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