警動という取締り

 
 戦前、当局による密淫売の手入れを臨検といったが、
江戸蒔代にはこれを警動と称する。警動はまた計動・
怪動などの字を当てるが、いずれも宛字で、原義は必
ずしも明らかではない。     
 隠し売女を取り締まるのは、幕府の大法によるので
あるが、町奉行当局は、よぽどのことがない限り、独
自で行動を起こすことはなく、吉原町からの訴願によ
ってのみ役人を出動させるという慣例がある。もっと
も、寛政改革,天保改革の折には、積極的にして大規
模な私娼摘発が行われたのであるが、これらはむしろ
例外に属すると見てよかろう。
 どうやら幕府の為政者たちは、ある程度の売笑地帯
の存在は、江戸の治安の上では必要悪と考えていたふ
しが見える。参観交代によって出府する諾大名の家中
武士、彼らはすベて単身赴任であり、しかもこれら武
士の人口は、江戸在住の町民人口とほぽ同数と想像さ
れている。
 江戸の人口動態はなかなか捕捉できにくいのである
が、元文元年(1736)調査の江戸町方の人口は五
十二万七千余人、男三十二万四千弱、女十九万三千余、
これは人別帳を基準とするから、地方から出稼ぎに来
ている者の一部は含まれていない可能性があり、また、
当時の下層階級の人数も加わってはいない。武士の数
が町方人口と同数とすると、当時の江戸人口は百万余
で、これにプラスアルファを算定しなければならない。
 ところで男女の人口比は、町方人口の男女比どころ
でなく、江戸総人口に対して恐らく女は二十パーセン
トにも満たないであろう。こう見てくると、この大都
市に、公認遊廓が吉原一つのみ、半公認の四宿を加え
ても、江戸の治安を維持することは至難の技だったに
違いない。石井良助氏の『続江戸時代満筆』によると、
町奉行は享保十六年に、護国寺音羽町・根津門前・新
氷川門前・深川洲崎・同町八幡前,本所横堀釣り鐘撞
堂辺の六カ所を「売女御免の場所」と定めようとの働
きがあったというし、天明七年には、新吉原のほか、
一カ所を公娼として認めようとの議もあったらしい。
これらが実現を見なかったのは、吉原方の強力な反対
運勤が、幕閣を勤かしたためであろう。しぱしば、両
場所をお目こぽしにして来た取締り当局の心中は複雑
ではあったが、だからといって、新吉原町からの訴願
があれぱ、隠し売女を放置しておくわけにはいかなか
った。
 三田村蔦魚編の『未刊随筆百種』第十六巻(中央公
論社版では第八巻)所収の「御町中御法度御穿鏨遊女
諸事出入書留」には、寛文八年(1668)から享保
五年までに行われた私娼詮議の記録が書き留められて
いる。いずれの場合も、吉原町の方で実証を握り、し
かる後に訴願に及び、同心衆を案内して現場に急行し、
私娼を捕えるというもので、実証がなけれぱ官憲は動
かないのである。こうしたやや消極的な取締り当局の
尻をたたきながら、吉原方は一応警動の実効をあげて
きた。
 捕えられた私娼は一括「新吉原町へ被下置侯」とい
うことで、廓内妓楼主人の入札によって競売に付せら
れたのである。女たちは「三年当所へ被下置侯得ぱ」
(寛攻七年十二月『新吉原町定書』)とあるように、
吉原にて三年間無償の廊勤めをしなけれぱならなかっ
た。もっとも、三年間の勤めというのは最長年限であ
ったらしく、『辰巳之園』の叙文には「さりながら此
所(深川)の疵には、晴たる遊里にあらざれぱ、北国
より禁ずる時はけいどうと云、百日余りの大紋日あり」
と、しており、三年ではなく百日余の入廓で済まされ
たこともあったらしい。三年にしろ、百日にしろ無給
の勤めは、岡場所の女たちにとっては非常な痛手であ
ったろう。あるいは親を養うために、あるいは借金を
負つて身を沈めた彼女たちが裕福である筈もなく、廓
から出された後も、ふたたび法網をくぐって媚を売ら
ねばならぬ宿命にあた。
 吉原では、このようにして捕えられて来た岡場所の
女たちを、奴女郎(やっこじょろう)と称して軽蔑し
たのであるが、まれには勝山のごとく、奴女郎の中か
ら、吉原に全盛を謳われる名妓が生まれることもあっ
た。
 宝暦二年春、深川に大警動があった。よほどの不意
打ちだったらしく、このとき捕えられた子供・芸者す
べて百十五名で、その翌年の春版吉原細見『柳桜』の
巻末に、奴女郎の名鑑が付載された。そして、この奴
女郎の中に、散茶の中では最高位の三分女郎二名、座
敷持十一名、部屋持二名のいることが確認できる。こ
のように、吉原の妓楼に入って、ハイクラスの傾城と
してランクされたことは、深川女郎の質の高さを物語
るものであろうが、同時に吉原に質の良い女の補給が
十分に行われていないことの証明にもなるであろう。
 この深川の女たちの大量移入は、沈滞気昧の吉原遊
廓に、かなりの刺激を与えたようである。吉原に組織
的な廓芸者の生まれるのはこのとき、深川芸者が廓内
で珍重されたことが導火線になったものと、考えられ
る。
 もっとも、警動による岡場所遊女の注入は一時的な
もので、期限が来れぱ帰されるわけだが、天保改革の
折には、遊女屋をつづけたい岡場所の楼主たちは、吉
原への移住を命ぜられたのであった。こうして、天保
十三年の夏以後、未曽有の遊女移助が行われたが、こ
れは、当然のことながら、吉原の妓格の低下に加速度
を加えることになった。言棄を替えていえば、吉原の
岡場所化が急速に進んだと見ることができるのである。
 天保改革による岡場所の崩壊は、江戸文化史、また
風俗史の上から、きわめて重大な事件であった。吉原
が江戸遊里の権輿として、本来の椎威と矜持を取り戻
すのは、明治新政府樹立後のことで、時の顕官たちが
二頭馬車を駆って吉原へ繰り込み、豪遊に明け碁れた
ことはいまなお語り草となっている。かくて、吉原の
女郎から明治高官夫人に出世した女も、二〜三にとど
まらないといわれる。
 明治から大正にかけて、「こつ」の隠語で呼ぱれた
小塚原の地獄、白っ首とあだなされた浅草十二階下の
魔窟、亀戸の銘酒屋街、そして関東展災後、十二階下
から移動した寺島大正道路の玉の井などは、いずれも
昔なつかしき私娼の巣窟だった。戦後は赤線(公娼)
・青線(私娼)地帯などの新語によって表現されるこ
ととなり、本場所の消滅した昭和三十三年以降は、岡
場所の語は完全な死語となったのだが、現代でも名前
が変わっただけで岡場所同様のサービスをする店も多
くやはり官憲とのいたちごっこが続く。