昼夜仕舞〜ちよんの間まで

 土地土地によって、岡場所はそれぞれの特徴を持つ。
当時の栖落本作者は、腕によりをかけて、その上地の
風土的特色と、自からに作られた妓情を写した。谷中
のいろは茶屋や高輪の七軒には坊主客が多く、根津は
大工を始めとする職人客を喜ぷ。深川は木場の番頭や
酒間屋・米間屋の手代などが常客といった工合に、客
種もまたそれそれに異なるのである、余暇の乏しい、
懐工合もそれほど豊かでない職人や商家の使用人たち
は、時間のやりくりをして遊ぱなけれぱならないので、
両場所の多くは切遊びを原則とする。切遊ぴとは時間
ぎめの遊ぴのことで、いわゆるちょっきり・ちょんの
間のこと。特に深川はどこでも大体昼夜を五つに切っ
て、一切の揚げ代金いくちという値段がきめてあった。
 昔の銭勘定は、今口の十進法と違っていささか複雑
である。そのうえ、金と銀と銭貨の三種の通貨によっ
て、それそれ相場制が適用される。いま、もっとも単
純に算定すると、一両は四分、一分は四朱、そして銀
六十匁が一両ということになる。銭一千文(一貫文)
は一分に当たり、他に疋(ひき)という単位もある。
一、疋は十文であるから、一分は百疋に当たる。のみ
ならず、銭貨には省百の慣用がみる。省百は九十六文
をもって百文に通用するというもので、これでは、頭
の弱い者は、銭勘定もいささかままならぬということ
になろうか。
(銭に関しては「落語の銭勘定」で詳細を説明)
 しかも、時代によって相場は変わり、新鋳小判の質
によっても貨幣価値が動くものであるから、宝暦と天
保では、そこにかなりの差が見られるのである。した
がって以上の記述は、大体天明期の基準的相場とお考
えいただきたい。当時、遊女の揚げ代金は金・銀・銭
貨によって多様に表示され、たとえぱ、深川仲町の場
合、昼夜仕舞は一両、一切は銀十二匁、同じく佃は昼
六百文、夜四百文といった工合で、はなはだしいのは
一切百疋などともある。よって以上の換算比率がわか
らなと、どちらが高くどちらが安いのかも知ることが
できない、ということになる。場所別揚げ代金につい
ては、安永三年(1774)刊『婦美車紫鹿子』に詳
細に報告され、安永二年刊の『当世気とり草』にも、
一部の岡場所につい、て記されている。
 寛永年問の『玉の蝶』には深川遊里各場所の揚げ代
金が表になって出ている。さらに、一枚刷りの諸国遊
里案内などによって明示され、評判記風の刷物などに
も記されているが、これらによって見るに、江戸の岡
場所では、一切銀十二匁、昼夜仕舞七十二匁(寛政期)
の深川仲町を最高とし、ちよんの間五十文、ニ十二文
の西谷鮫ケ橋や井野堀などの卑媚まで、千差万別の値
段のあることがわかる。
 ちょんの間一切百文の切見世を百蔵、五十文の見世
を五十蔵などというのはそのころの通言で、昼六百文
、夜四百文のところは、これを四六見世など称したの
であった。