遊女たちの夢と現実

 
 岡場所の娼妓は一般に子供の名で呼ばれる。そして
この子供は、大方二つの種類に分けられるであろう。
一つは妓楼(茶屋)に抱えられている伏玉(ふせだま
)と呼ばれる遊女、一つは通いの遊女で、これを呼出
(よびだし)という。呼出には娼妓置屋に抱えられて
いる者と、出居衆(でいしゅう)と称される自前の娼
妓の二種類がある。深川の遊里の機構は、岡場所の中
ではもっとも整備されているので、今、深川を例にと
って説明してみよう。        
 子供を抱え、自家で営業する見世は伏玉屋であり、
岡場所の多くがこの形態をとる。一見茶屋のごとく見
えるのは、取り締まり当局に対するカムフラージュな
のである。呼出の制度を持つ遊所は、時代によっても
異なるが、深川七場所のほか、新開の中州・芝明神・
麻布氷川・回向院前土手側・三田同朋町など多くはな
い。呼出は、床芸者(芸者であっても娼妓を兼ねる者
)をも含めていうことももちろんである。呼出は自家
で客をとることはほとんどなく、料理茶屋、また船宿
などからの呼出に応じて出張し、そこを揚屋として営
業する。大正・昭和前期の高等淫売といわれた女たち
は、まさにこの流れを汲む者であろう。
 伎楼、また子供屋(置屋)を宿といい、ドヤと隠語
でも呼ばれた。深川通りの帰橋が、その戯作『富賀川
拝見』の中で、仲裏(仲町裏の意の俚俗名)の子供を
ずらりと並べ記しているが、いずれも宿の主は女で名
前が「お今宿」「お琴宿」「お留宿」などとあり、今
日の芸者置屋が大方主人(女将)の名で営業している
のに受け継がれている。当時この女主人を「どやのか
か」とあだ名した。なお「置屋」は上方語といわれ、
江戸ではほとんど使われていない。しかし、洒落本な
どにはまれにこの言葉が登場するので、全く使われて
いなかったとはいいきれない。

 「どやのかかあねごあねごとたてられる」(安永年間)     
 「どやのかか子供と呼ぶが二十四五)」 (天明年間)

  宿の神さんは、自家の抱え女郎を「子供」と呼ぷ
が、呼ぱれる子供は、子供どころか二十四〜五にもな
る大年増の遊女だ、という意味。ここに働く子供たち
の多くは転々と鞍替えして来たいわくつきの前借組な
のである。自前の芸娼妓は、前述したように出居衆と
も呼ぱれた。出居衆はよきパトロンを得て、二〜三の
子供を抱える身分となれぱ、どやのかかとなることが
できる。そして彼女たちにとっては、このどやのかか
になることが、最上の出世であり、夢だったのである。 
 岡場所の娼妓は年齢もまちまちで、出居衆の中には
亭主持ちや子持ちもいた。また、吉原の高妓だった女
が流れ流れて私娼に転落することも珍しくない。吉原
は官許の遊里であるだけに、年季は厳重に守られるか
ら、身請けされなくとも、年季を過ぎれぱ廓を引かな
けれぱならない。したがづて二十七歳を過ぎた傾城(
けいせい)が、引きつづき商売するとすれぱ、どうし
ても両場所へ入ることになるのである。
 「星落ちて石場をかせぐ不仕合」(文政期)
「星」とは入山形に星の印をいい、『吉原細見』のこ
の符牒は、部屋持・座敷持の高妓を意味する。つまり、
この句は、その高妓だった女が、転々と鞍替えしつつ、
いつか深川石場の卑娼に落ちたことをいう。初見世の
両場所でも同じだが、特に深川では、京下りの新妓が
珍重される傾向があった。深川の子供屋の中には、上
方と関わりの深い見世が何軒かあり、絶えず新妓を補
充して、客の人気をあおったのである。春水の人情本
『春暁八幡佳年』に「新嬢ではやるのが中裏にも大分
あるノ」とあるが、先にあげた『富賀川拝見』に、
 「〔おみつ宿〕京よりのぬけ道有り、和らかにして
おもしろき所也」
 とある記事に符合するのであろう。 
岡場所の女は、瘡毒(梅毒)にかかる率が多く、頭髪
などの抜け落ちて体調が次第にくずれ、病床に臥す状
態になることを鳥屋につく」という。しかし、これを
病み抜いて治癒すると、一極の免疫体ができるらしく、
「そのかはり、こんだ病ミぬいてしまふと、おそろし
く達者になつて、どんな湿ッかきでも瘡ッかきのお客
をとつても、うつる気づかひハないのさ」
(『部屋三味線』寛政期)
 とあるとおり、一人前の娼婦になるにば、どうして
もこの病気を克服しなければならぬとされた。しかし、
そう簡単にこの病気が治るはずもなく、鼻を失い、肉
体もただれ、脳を冒されて発狂する者もあったに違い
ない。華やかな花街の陰にある悲惨な現実も見落とす
ことはできないだろう。