岡場所撲滅作戦

 
 水野越前の天保改革は、徹底的な岡場所撲滅作戦に
終始する。さしも強大な深川の遊所もついにこの時一
掃され、音羽・根津・谷中も閉鎖された。
 なお引き続き遊女屋渡世をしたいものは、すべて新
吉原へ引き移ることとなり、天保十三年六月八日の書
上による吉原移転の妓家は都合六十軒を数えたが、六
月以降もなお後を絶たず、『花散る里』の著者は、
「是より後に他地より新吉原へ移住せし者幾干なるを
知らず」と、記している。おそらく百軒を越したので
はないかと推測する。 
 水野越前失脚後、根津などのごとくは、早々と再興
した岡場所もあったが、大方は根底から機構が崩れ去
ったため、容易に復興はできなかったようである。
それでも嘉永(1848〜1854)ころには新たな
花街が所々に出来、娼妓も芸者も一応は生気を取り戻
したらしい。
 やがて幕府崩壊のあとをうけて江戸は東京となり、
明治維新政府の下で、岡場所のいくつかはそのまま生
き延びたが、吉原はもちろん、四宿・根津もまた貸座
敷の名において公娼の許可を得ることとなる。
 樋口一葉の『にごりえ』の舞台となった本郷丸山の
茶屋町、坪内逍遥の『書生気質』に描かれた根津遊廊、
前者は私娼、後者は公娼であるが明治になっても江戸
からの伝統を受け継いだ色里であった。