江戸の私娼屈「岡場所」

 
一、前々より禁制のごとく、江戸町中端々に至迄、
  遊女の類、隠置くべからず。                     
  もし違犯のやからあらば、其所の名主・五人
  組・地主迄、曲事たるべきもの也。                   
   

 この一条は、新吉原大門口に立てられていた高札の
文言であるが、町触れや一片の制礼によって、自然発
生的な私娼をすべて阻止することはできなかった。 
 私娼には、散娼(さんしょう)と集団娼(しゅうだ
んしょう)の二種類がある。散娼は組織によって身の
安全を守ることをせず、多くは個々の意志によって、
その営業地域を選択する。狐影悄然と街頭に立ち、客
の袖を引く者あり、水茶屋女のひそかに男をたらすあ
り、出合い茶屋を舞台に稼ぐ者、橋下や苫船(とまぶ
ね)をねぐらとして出没する者、これらはすべて散娼
であるが、一方一定の地域に蝟集(いしゅう)して、
いつか密淫売の組織を形成するものがある。多くは神
社・仏閣の門前町に巣喰い、休茶屋・水茶屋・を揚屋
(遊女のために提供される座敷)として営業する、あ
るいは、埋め立て新地の料理茶屋が、当局のお目こぼ
しによって売女を置きこれを基盤として花街を形成す
る場合もあった。
こうして、江戸の売娼地帯は、次第にその規模を拡大
していったのである。当時これらの私娼屈を総称して
岡場所と呼んだ。

 岡場所の「岡」は局外の意味で、岡目八目、岡惚れ
などの「岡」がすなわちこれに当たり、唯一の公認遊
里新吉原を本場所と考えていたのに対して、それ以外
の遊所を意味する言葉となる。一説に「他場所」のな
まった言葉ともいわれるが、これはいささか付会の気
味があるだろう。吉原起立以来の由緒ある名主庄司氏
代道如斎が享保五年(1720)に撰した『異本洞房
語園』に、「扨(さても)岡より吉原へ来りし遊女は、
いまだはりもなくて、客をふるなどという事はなし」
と、あるのが岡場所を暗示した「岡」の用語の始まり
といわれている。
 以後、岡場所の語はようやく前句付や俳諧にも顔出
してくるのである。江戸の四宿(品川・千住・板橋・
新宿)も、広い意味では岡場所に入るのであるが、四
宿の宿場女郎は、条件つきながら一応官許であるから、
他の岡場所とは異質の存在であった。