討ち入りは十二月十五日 現代では一日の境目は午前0時となっているから、午後十一時五九分 五九秒までは前日で、0時0分から今日となる。ところが江戸時代には 日付変更について二通りの方法があるのでやっかいである。 その一つは、現代と同じように真夜中を日の境とするもので、正碓に いえば太腸が子午線を通過する時刻である。これは、暦法や公文書など 公式の記録に用いられたものである。 ところでこの方法によると具合の悪い点がある。というのは、暦法や 公式に用いられている持刻法では、真夜中は子の正刻、つまり、子の刻 のちょうど真ん中に当たっている。したがって、子の初刻、二刻は前夜 であり、三刻、四刻は今暁に属することになる。つまり子の刻の前半は きのうで、後半がきようとなって、子の刻が二日に跨ることになる。 一方、一般に用いられたのは、明六つを日の境とする方法で、いわば 一日の活助の開始の時刻をもって、一日の始めとするきわめて便利な方 法である。これなら、夜が明けるまでに帰宅すれば「午前様」にはなら ないわけで、夜遊ぴの好きな亭主族には大変都合良い日付変更法という ことになる。 したがって、江戸時代の記録を読むときにはこの点を注意しなければ ならない。一例を、元禄十五年(一七○二)の赤穂浪土の吉良邸討入り にみてみよう。 各種の記録によると、赤穂浪土の討入り時刻は七つ前、すなわち現在 の午前三時半ごろのことである。浪土たちは十二月十四日夜から、三カ 所に分散集合して、吉良邸前に集合している。したがって、現代風にい えば、射入りは十二月十五日の未明ということになる。 ところが、当時の記録には、「十四日夜七つ時分、上野介殿御屋鋪へ 取掛」(寺坂筆記)とか、「昨十四日八つ半過上野介並に拙者罷在侯処」 (吉良左兵衛口上鶴書)のように、いずれも十二月十四日未明の事件と 記録している。 これを、そのままに現代風に十二月十四日と考えると一日の誤差を生 じることになる。赤穂浪士の討入りは十二月十五日未明としなければな らない。けれども、当時の人々は明六つまでは昨日と考えていたからこ そ、上に掲げたような日付を記録したわけであるし、赤穂浪士の面々に とっては、月は代われど主君の命日という意識が、いっそう戦意を高め たわけである。 なお、元禄十五年十二月十五日は太腸暦では一七○三年一月三十一日 に相当している。 増刊「歴史と人物」中央公論社 岡田芳朗 著