時計師の役割


江戸初期以来、南蛮時計すなわちヨーロッパ産の時計が珍重な機械とし
て、ごく少数渡来している。しかし時刻法の違うわが国では、それらの
機械時計はそのままでは時許としては役に立たないので、手を加えて不
定時法に合うように改めたものが残っている。
 器月な日本人は南蛮時計を模倣したり、新たに工夫を加えて、不定時
法のための機械時計を製作するようになった。それが和時計である。
 和時計には櫓時計、枕時計、尺時計など、さまざまな様式のものがあ
るが、いずれも、時針だけで分針が付いていない。いまは、櫓時計や枕
時計を中心として話を進めよう。
 和時計では、一日十二刻が一回転するだけで、西洋の時計のように午
前と午後に時針が二回転する形式のものは作られなかった。したがって、
一刻に約三○度ずつ時針が回転する。つまり、われわれの今日使ってい
る時計で時針が一時間に移動する角度を、だいたい二時間で移助するわ
けであるから、よほど注意深く観察していても、四半時つまり約三十分
より短い時間を和時計の文字盤から読みとることはむずかしいわけであ
る。そのうえ、時針は太目に作られ、円盤上に固定された形式のものが
多く、その円盤が回転する構造になっていたから、なおさら針の移動が
見にくいのである。そういうわけで、よほど精度の高い和時計でも、現
在の時刻で前後十五分間くらいの読み違いは避けられなかった。
 もともと、定時法のために作られた機械時計を不定時法のもとで機能
させるためには、なんらかの工夫が必要であった。その方法は大きく二
つに分類できる。その一つは、昼と夜とで時計の進み方を変える方法で
あり、他の一つは時針の進み方自体には手を加えずに文字盤の目盛を等
間隔でなくする方法である。
 前者の場合は、通常時計の上部にある振子の役割を果たす棒天府に手
を加える。棒天府の両端についている錘の位置を昼と夜とで変えること
によって、機械の速度を変えることができる。明六つと暮六つにこれを
行えぱよいわけだが、これでは手間がかかりすぎる。そこで、昼間用の
棒天府と夜間用の棒天府とを二つ備えておき、明六つ碁六つに自動的に
切り換えるようにしておけぱよい。いわゆる二挺天府の和時計である。
 しかしながら、昼と夜の割合は季節によって変わっていくし、一刻の
長さも変化する。そこで、二十四節気ごとに錘の位置を変えなけれぱな
らない。
 江戸時代の暦法は太陰大陽暦、いわゆる陰暦である。これは月の朔望
を基礎としているから、月のみちかけによってだいたいの日付がわかる
便利さがある反面、一年は三五四日か三五五日となり、実際の一年(太
陽年)に比して二口ぽど不足する。
 つまり、年々十一日ほど季節より暦日の方が先に来てしまう。概賂二
年半ほどで一カ月のずれが生じるため、三三カ月に一カ月の割で閏月を
挿入して、実際の季節と暦とが合うように調整している。
 そこで、時計の昼夜の割合を調整するためには朔目とか十五日という
暦日を使わないで、暦を見て二十四節気を知って、その日に行う必要が
あるわけである。二十日節気は太陰大陽暦のなかの太陽暦に相当する部
分で、実際の季節を示しているからである。
 暦の二十四節気に当たる目には、昼夜の長さの割合が示されており、
時計調整の目安となる。実際には、冬至から夏至までは、昼間用の棒天
府の錘を目盛一つだけ外側に移して運動を遅らし、夜間用の棒天府の錘
を目盛一つだけ内側に移して運動を早める。夏至から冬至にかけては、
その逆を行うことによって昼夜速度の調整ができるわけである。
 文字盤を変える方法には二つあって、一つは、文字盤のコマの間隔を
自由に動かせるようにしておいて、間隔を広くしたり狭めたりすること
によって調整する方法であり、他の一つは何種類かの文字盤を用意して
おいて、文字盤そのものを嵌め替える方法である。
 この二種類の方法も、棒天府の錘を変える方法と同じく、二十四節気
の日に調整を行なったものである。
 江戸時代を通して、時計は高価なものであったから、時計を所有する
のは大名や大寺院ないしは富豪に限られたし、その調整は時計師の手に
よらなけれぱならなかった。時計は所詮庶民とは無縁のものであった。
 西洋でも、時計は高価な機械であったが、早くから時計塔が作られて、
民衆に時を知らせた。わが国では、明治になるまで時計塔は建造されな
かったが、それに代わって時の鐘による時報の制度が発展したのである。