令和8年(2026)4月11日(土) 旧暦2月24日 先勝
今朝の撮影 Data SONY α1 II Sigma 20-200mm F3.5-6.3 DG iPhone 17ProMAX 現像 Adobe PhotoshopLightroomCC 撮影枚数629枚
- 平米で 測りきれぬ世の中に 畳ひと間が心のものさし -
境内のソメイヨシノはすでにその役目を終え、春の舞台から静かに退いてしまいましたが、遅咲きの八重桜は今なお満開の姿を保ち、名残の華やぎを見せてくれております。 本来であれば、この時期から境内の西側一帯はツツジの花に覆われ、季節は次の彩りへと移ろっていくのですが――今年はその風景が大きく様変わりしております。西側から奥山にかけて広がっていたツツジはすべて撤去され、現在は一帯を平らに整える整地工事が進められているのです。 かつては色とりどりの花が連なり、訪れる人々の目を楽しませてくれたあの景色も、今ではすっかり姿を消してしまいました。季節の移ろいとは別の意味で、風景そのものが変わっていくことに、あほまろは少しばかりの寂しさを覚えずにはいられませんね。 今朝はようやく天気が回復し、澄み渡る青空が広がっておりますよ。 早朝の外気温は15℃と、まだひんやりした空気に包まれておりましたが、日中はぐんぐん気温が上がり、なんと27℃の夏日になる見込みとのこと。春と申しますより、もはや初夏の入口に立っているかのような陽気でございますね。 そんな陽気に誘われて、あほまろはこれからツツジの様子を見に出かけてまいります。季節は確実に次の装いへと移ろい、境内の彩りも日ごとに変わっていくのが楽しみでなりません。 しかしながら、心地よい日差しの裏には油断ならぬ落とし穴も潜んでおります。紫外線はこの時期から一気に強まり始めるものの、春先の身体はまだその刺激に慣れておらず、思いのほかダメージを受けやすいそうでございます。 「まだ春だから大丈夫」と高をくくっていると、後で肌がしっかり抗議してくるのが世の常でございます。 外出の際には、帽子や日傘、そして日焼け止めなど、しっかりと対策を講じておかねばなりません。 春の陽気に浮かれて無防備に歩くよりも、少しばかり用心深いくらいが、ちょうど良いのかもしれませんね。 今日は「メートル法公布記念日」でございます。 もっとも、そんな記念日があること自体、あほまろにとっては「理屈の世界の話」であり、日々の暮らしの中では、いまだに「体感の世界」が幅を利かせているように思えてなりません。 世間では「メートルは世界の常識、尺貫法は日本人の体感」と申しますが、まことに言い得て妙でございますね。 たとえば、メートルで寸法を測ると、どうにも中途半端な数字が並び立ち、まるで帳尻の合わぬ計算書のように落ち着かない。ところが、これを尺や寸で言い換えますと、なぜかピタリと収まり、まるで長年使い込んだ道具のように手に馴染むのでございます。 現場の職人さんが「やっぱりこっちだよな」と呟く、その一言の奥には、理屈では割り切れぬ“身体の記憶”が潜んでいるのでしょう。あほまろもまた、その気持ち、なんとなく分かるのでございますよ。 いくら世界がメートルで統一されようとも、不動産の広告に「12.15平方メートル」と書かれていては、どうにも実感が湧きません。「……で、広いのか狭いのか、どっちなんだい」と首をひねるばかり。ところが「六畳一間」と聞けば、畳の並びが頭の中にすっと浮かび、押し入れの位置まで見えてくるのですから、不思議なものでございますね。 さらに申せば、畳ひとつ取っても京間だの江戸間だのと、同じ一畳でも微妙に寸法が違う。世界基準に合わせようとしながら、最後は「まあ畳でいいか」と落ち着いてしまうあたり、日本人のしたたかさ――いや、都合のよい折衷主義とでも申しましょうか――実に味わい深いものがございます。 つまり、メートル法は理屈で便利、尺貫法は感覚で便利。どちらが優れているかを競うのではなく、両方をちゃっかり使い分けてしまうところに、日本人の器用さ……いや、少々の“いい加減さ”も含めた絶妙なバランス感覚があるのでしょうね。 そういえば、あほまろの秘密基地は30坪。 これを現代風に申せば、約100平米ほどになるそうでございます。さらに畳に換算すれば、およそ60畳分の広さ。数字だけ聞けば、なんともゆとりある空間のように思えますが――その三分の一は、長年集めてきたコレクションの荷物に占領されているのです。 結果として、あほまろの作業スペースは10坪にも満たぬ“手の届く宇宙”。 しかしながら、座ったまま必要なものすべてに手が届くこの距離感こそ、あほまろにとっては何よりも心地よいのでございます。広さとは、数字で測るものではなく、心が落ち着くかどうかで決まるものなのかもしれませんね。 昔は、太った人を「百貫デブ」などと申したものですが、いまやそんな表現もすっかり姿を消し、時代とともに単位も言葉も変わってゆくのでございます。けれども、人の感覚というものは、案外しぶとく残るものなのでしょう。 変わるものと、変わらぬもの。その間で揺れ動きながら、今日もまた、あほまろは自分なりの“ちょうど良さ”を探しているのでございますよ。 「平米で 測りきれぬ世の中に 畳ひと間が心のものさし」(阿呆人也) 今日の月は「有明月」。 あほまろにとって、ここはまさに“とっておき”の場所でございます。 今朝の日の出は午前5時14分。 ハナカイドウの花も終わってしまいましたよ。 かつては境内の西側一帯を覆い尽くし、春の盛りを華やかに彩っていたツツジたち。 その面影は、いまや整地された大地の中に消え去り、まるで最初から無かったかのように均されてしまいました。 境内に残されたキリシマツツジが、目の覚めるような真紅の花を咲かせておりましたよ。 雨粒をまとったその花びらは、まるで燃え立つ炎のように鮮やかで、静まり返った境内の中に、ひときわ強い存在感を放っております。周囲の緑との対比も美しく、まさに春から初夏へと移ろう季節の力強さを感じさせてくれますね。 境内で数を減らしながらも、こうして咲き誇る姿を見ると、「美しさとは量ではなく、輝きなのだ」と、あほまろは改めて教えられたような気がいたしますよ。 河津桜も、いまではすっかり葉が主役となり、その隙間から小さな赤い実が、そっと顔をのぞかせておりました。 真っ赤に燃えるようなボケの花は、いまなお満開の姿を保っております。 境内の藤棚にも、いよいよ花がほころび始めてまいりましたよ。 細やかな蕾が連なり、やがて紫の房となって垂れ下がるその気配は、まるで静かに時を告げる合図のようでございますね。まだ満開にはほど遠いものの、その“咲き出し”の瞬間こそ、あほまろには何とも愛おしく感じられるのでございます。 もっとも、この藤棚――ただ自然に任せているわけではございません。 鳥たちに新芽をついばまれてしまわぬよう、花が咲き始めるまで、しっかりと網で覆われているのでございますよ。 自然の美しさを守るために、人がひと手間かける。 その光景はどこか不思議で、少々人間の都合も感じられますが、それでもこうして無事に花を咲かせてくれるのなら、文句は言えませんね。 網越しに見上げる藤の蕾―― それはまるで、「もう少し待ちなさい」と言われているようでもあり、あるいは「準備は整いつつありますよ」と、そっと知らせてくれているようでもあります。 満開の華やかさももちろん良いものですが、この“これから咲くぞ”という控えめな気配の中にこそ、春から初夏へと移ろう時間の深みが感じられるのかもしれませんね。 おはようございます。今朝は開門3分半前にやって来た、山本さん、野崎さん、五味さん、高橋さんと金山さん。 子育地蔵さま、わが家の子どもたちと猫の安全をお守りください。 奥山の奥に移動された「日本のナイチンゲール」と称される瓜生岩子像。 春の境内をご覧下さい。 影向堂の桜が静かにその役目を終える一方で、そのすぐ側では、イロハモミジが見事に若葉を広げ、まるで「次は私の番」と言わんばかりに、初夏の勢いを見せております。 やわらかな新緑は、朝の光を受けて淡く輝き、風に揺れるたびに、命がほどけていくような瑞々しさを感じさせてくれますね。 境内のソメイヨシノは終わってしまいました。 昨年から落ちることなく、残り桜にそっと覆われながら、いまだに枝にしがみついているソメイヨシノの四枚の葉――その健気な姿に、あほまろは思わず足を止めて見入っているのですよ。 「散りそびれ 時の流れに 抗(あらが)いて 幹しがみつく 意地の四枚葉」(阿呆人也) 総て無くなり、広くなった境内です。 今日はお天気が良いので、ツツジを見に、どこかにいこうかな。 ------------------------------------------------------- 夕べの睡眠は93%でした。 おはようヒロちゃん。 今朝の朝の朝食は、野菜んおタマゴ焼きとカニ炒飯。デザートはデコポン。 妻のコレクションは、押し入れから出て来た、ビビアンさんとソフィアさん。 昨日の東京スカイツリー。 しゅと犬くん。 あほまろお帰りなさい。 夕べの夜の夕食の晩ご飯は、野菜とタマゴとおにぎりに残ったクルミパン。デザートはイチゴ一個だけ。 妻のコレクションは、ウメちゃんと千草ちゃん。 Memo iPhone 16 ProMAX