2003年12月12日 金曜日


今朝の写真
SONY DSC-F707
撮影枚数25枚

お宝発見

 雨で、とっても寒い朝になりました。
布団の外にちょっと手を出しただけで、
外気の寒さが伝わってきます。こんな日
はいつも身体が重たいんです。今日は、
病院の定期検査なので、早めにモモちゃ
んの散歩を済ませなければいけません。
でも、あと5分だけ・・・、でも長く寝
ていればいるほど体が動くまでに時間が
かかるしぃ・・・。
 外に出ても、なーんか、暗くて嫌な感
じですが、朝からみんな忙しそうに働い
ております。いよいよ浅草寺本堂裏のが
さ市(注連縄市)の小屋懸けが始まりま
した。みなさん、雨の中でも傘も差さず
に荷物を運んでいます。ここでは、注連
縄の材料を始め、様々な正月用品の卸し
販売をするところで、一般の販売は行っ
ておりません。今となっては、近所で入
手出来なくなってしまった藁や稲穂など
注連縄に無くてはならない材料を関東中
の業者が買いに来るのだそうです。
 がさ市は14日から始まりますが、業
者以外は入ることができません。中でち
ょろちょろしていると怒鳴られてしまい
ますよ。あほまろは、近所の鳶頭の仕入
れに着いていって雰囲気を撮影するので
すよ。
 昨日の日記で冗談を書いたことがきっ
かけで、昔から束になって仕舞っておい
た古紙の整理していると、とんでもない
手紙を発見してしまいました。松尾芭蕉
の弟子であった、国文学者の奥田三角(
おくださんかく)が、同じ門弟の宝井其
角に書画を送った時の内容を書いた書状
なのです。
 あまりの達筆で、読めない箇所も有る
のですが、蕉門十哲と呼ばれていた、凡
兆・支考・野坡など有名人の名前も見え
ております。この宝井其角といえば、誰
もが知っている、「闇の夜は吉原ばかり
月夜かな」なんて句の作者です。
 江戸下町堀江町(一説にはお玉が池)
に、医者竹下東順の長子として生まれ、
蕉門第一の門弟とも言われております。
 また、この手紙を書いた奥田三角は、
元禄16年津藤堂藩領豊原村(豊原町)
の大庄屋奥田清十郎士救の子として生ま
れ、名を士亨、字を嘉甫、通称を総四郎
・清十郎と称し、蘭汀(らんてい)・三
角・南山を号していそうです。19歳で
上京して儒学者伊藤東涯に入門し、帰国
後、29歳で津藤堂藩の儒官として仕え
て以来、奥田家は代々漢学者を輩出し、
藩校有造館の重鎮として登用されていま
す。
 著書に「三角集」「毛詩解」等があり
、天明3年に81歳で没しております。
 古い書物ってのは、どこの骨董屋さん
でもまとめて段ボールに投げ込まれてお
り、ちょっとでも欲しい素振りを見せる
と値段をふっかけてくるものです。あほ
まろはいつも、何かを買ったおまけとし
て、屑のように扱われていた書類の束を
貰ってくるのですけど、ほとんどが只の
屑なのです。でも、時々こんな貴重な手
紙を発見することが有るのですよ。以前
の発見は、昭和6年の政友会内閣で首相
を努めた犬養毅の書簡も見付けたことが
あります。
 今回の手紙は、岩手県の旧家から出た
といわれるゴミの中に混じっていたもの
で、他にもまだ解読出来ない手紙が有る
のです。これからがちょっと楽しみです
ね。
またこれに、はまってしまいそう・・。