2002年11月30日 土曜日       

今朝の写真
SONY DSC-F707
撮影枚数48枚

浅草の味
 江戸時代の浅草は、『江戸繁昌記』によると、
「人の賽詣すること未だ嘗て一刻の間も絶えざる
なり」と書かれています。今よりずっと栄えてい
たのでしょう。江戸っ子は、浅草観音さまが一番
と思って暮らしており、四季折々の行事には欠か
さず参詣していたようです。坂東三十三霊場の中
で、一番有名な浅草寺が十三番札所であることを
嘆き怒った川柳も多くみられます。「江戸自慢十
三番がこのくらい」など、坂東きっての大伽藍の
浅草寺が第一番でないことへの不満を詠んだので
しょう。坂東札所が江戸開府以前の創始であるの
で、いたしかたないことでしょうが、今でも日に
数万、お正月三ヵ日の初詣には160万人が訪れ
るといわれています。            
 しかし、今日はこんなに良い天気なのに、観光
客の姿がまばら。韓国から2泊3日でやってきた
という若いカップル。小学生の時に野球の試合で
東京に来たときの浅草が忘れられなく、新婚旅行
に再び浅草を訪れるのが夢だったそうです。昨夜
遅く浅草ビューホテルにチェックインし、その足
で浅草寺を訪れたそうです。今朝も朝食後真っ直
ぐ浅草寺。よっぽど浅草に良い思いでが有ったん
でしょう。あほまろは韓国語が判らないので、彼
は、必至に片言の英語でそんなこと語ってくれま
した。今回は、奥さんに和服を買って帰るそうで
すよ。韓国人にとって印象の悪かった日本、若者
達の意識はかなり変わってきたようですね。これ
からは、みんな仲良く平和な世界にしましょう。
 そんな訳で、今朝は、浅草に住む日本人として
浅草寺周辺を再確認する散歩でした。久しぶりに
見上げてみた本堂内の天井画。ちょっと煤けてき
たようですが、やっぱり有り難いお姿ですね。 
 また、浅草は昔はグルメ通にも有名な場所でし
た。昭和職に活躍した小説家、一瀬直行の「浅草
走馬燈」には、明治後期から大正初期を懐古して
書かれた浅草の思いで。その中に登場する中に、
今も健在するお店も多いようです。   
 その中の、「浅草の飲食店」項目を抜粋してみ
ます。                   
 『飲食店は浅草の胴体である。4軒に対する1
軒が飲食店だと聞く。浅草全体がさびれたという
声をきけば、それは飲食店がさびれたからだと言
われている。これは穿(うが)った言葉である。
寿司屋と天ぷら屋は飲食店の首席であった。少な
くとも今までは・・・。ところが、実際上からみ
ると、両者を兼業している店が多い。一本だてで
は戦術上困難になったのだ。このことは他の飲食
店にも言える。たとえば、いかに店の見識をほこ
っても、支那ソバをやり、ライスカレーをやるよ
うになってしまった。         
 このことは不景気によること勿論だが、時代の
趣向がそうさせるのだ。と同時に彼らの戦線上に
素晴らしく進出してきた簡易食堂の増加にある。
店の確実な代々のレッテルをはがしてしまう。一
度かしぐと、客はもっとも正しい審判者である。
加速度的にすたれてしまう。どんな大店でも安値
による吸収法として椅子席を設けたように、浅草
の飲食店は時代向きの何らかの方法を見いださな
ければならない羽目に現在ぶつかっているのだ。
・・・・』                 
 昭和初期にさびれてしまった浅草を嘆いている
のですが、”浅草全体がさびれたという声をきけ
ば、それは飲食店がさびれたからだと言われてい
る・・”。確かに、今に通じるところがあります
ね。老舗は老舗として頑張っている反面、表通り
には安売りのお店やチェーン店が軒を連ね、日本
中どこでも同じ味が楽しめるようになってしまっ
た現在、彼が言うように、浅草でなければならな
い”味”ってのは、”いかに店の見識をほこって
も、支那ソバをやり、ライスカレーをやるように
なってしまった・・”。そんな安っぽい”味”じ
ゃ無いんでしょうね。