2002年7月13日 土曜日       

今朝の写真
SONY DSC-F707
撮影枚数21枚

自由人

 江戸時代から浅草は観音様の御利益で繁昌して
いるが、近年、週末の浅草は平日と客層が一転す
る。何がって、そりゃ一攫千金を目指して場外馬
券場を訪れるお客さん達で賑わうからだ。そんな
連中の中には、昨夜からなのか、今朝うんと早く
からなのか、道路のあちことで競馬新聞を枕に寝
ている人が増える。普段の日は、働かなくてもそ
れなりに楽しい生活を送っているような連中が所
帯道具一式が入った紙袋を抱えて寝ている。今朝
もモモちゃんが可愛いと寄ってきたおじさん。ち
ょっと臭っていたが、あほまろは好奇心を押さえ
きれずに色々と質問をしてしまった。こんな連中
は、普通に暮らしている連中からまともに相手に
されないのか、あほまろの問いかけに嬉しそうに
素直に答えてくれた。3年前、新潟から東京に出
てきて、新宿西口公園に仮宅を構えたのがこの生
活の始まり。しかし、先住者達とのもめ事で追い
出され、上野公園に転宅を余儀なくされたが、そ
こでは、自治区の管理者から住民税の取り立てが
厳しく、それで浅草に移ってきたという。浅草に
来て一番感じたのは、河川敷は別として、街の中
には”自由”が有るそうだ。いつも”自由”に暮
らしている連中の更なる”自由”とは何なのだろ
うか。                   
 ”自由”を広辞苑で調べてみると、「一般的に
は、責任をもって何かをすることに束縛や強制な
どの傷害が無いことをいうのだ。”自由”は一定
の前提条件の上で成立しているから、無条件的な
絶対の”自由”は人間にはない。”自由”は、障
害となる条件の除去・緩和によって拡大するから
、目的のために自然的・社会的条件を変革するこ
とは”自由”の増大である。」        
 この意味での”自由”は、自然・社会の法則の
認識を通じて実現される言葉なのだ。彼がいう”
自由”とは、社会生活で、個人の権利・人権が侵
されない社会的自由を言ってるのだろう。   
 社会生活の中で、国家権力その他の干渉は避け
られない。それを”不自由”とは思わず暮らして
いる。そんなことを気にしだすと一生懸命に働い
て稼いだ金はすべて自分の手に入る訳じゃない。
自分が要らない物を、他人が何と言おうと捨てて
しまうと、捨て場所によってはお咎めが待ってい
る。ゆっくり寝ていたいのに、会社の時間に間に
合わないよ!と、女房が怒鳴っている。等々、”
不自由”な世の中だ。       
 前出のおじさんの、浅草には”自由”がある発
言。浅草には、豊富な食料だけじゃなく、自由人
に更に”自由”を与えてくれる何かがあるのかも
しれないが、会話の中からは何が”自由”なのか
は知ることができなかった。      
 豆腐屋さんの店頭に捨てたのか、置いてるだけ
なのか、まだ湯気がたっている”おから”の山。
コンビニ弁当の空き器に一杯くらい貰っても、店
員が何も言わないのを見ていると、やっぱ、浅草
には”自由”があるのかもしれないね。  
 ウルトラマンに見守られながら、競馬新聞を頭
に被って寝ているおっさんも、傍目には”自由”
と”幸せ”を感じさせてくれるんだよね。
 今のあほまろは、そんな自由人達よりも窮屈に
暮らしてるのかもしれないね。