2002年4月21日 日曜日       

今朝の写真 
CANON EOS-D60
TAMRON SP ZOOM 24-135 F3.5-5.6
撮影枚数21枚

いつも浅草
 流鏑馬は後天に恵まれ無事終了したが、一転し
て今朝は寒くて、強い雨になってしまった。これ
から隅田川で行われる早慶レガッタでは、ずぶ濡
れになって応援合戦が繰り広げられろのだろう。
そんなことは、あほまろの出身校では無いのであ
まり興味は無いが、浅草周辺の行事としては他人
事とはいってられない。大雨の中で行われた早慶
レガッタのエピソードが紹介される「早慶レガッ
タの午後」(佐山和夫著)の中より興味有る記述
を引用してみる。              
 ”大会当日は、激しい雨と風でレースができる
かどうか、危険なコンディションでした。一歩間
違えば大事故が起る、そういう状況だったと思い
ます。しかし、この状況下にあって両校のレース
に対する考えは対照的でした。慶応はどんなに艇
に水が入ってこようとオールから手を放してはい
けない。8人で漕ぐからエイトなのだ、とコーチ
から指示されました。一方の早稲田は、どんなこ
とがあっても艇を沈めてはならない。安全にゴー
ルまで運び届けることがオアズマン(漕手)の義
務だと考えたのです。
 レースは中盤までは、慶応が圧倒的なリードを
奪いました。早稲田は、艇に入ってくる水をかき
出すために、8人では漕がず、6人で漕いだり4
人で漕いだりしていたのです。もう、その差は到
底追い付けるものではなく、勝負は決ったかに見
えました。しかし、浸水のために徐々に艇速が鈍
ってきた慶応は、スタートから3700メートル
地点の駒形橋付近で遂に沈み始めたのです。  
 結局、慶応は救助され、レースは早稲田が勝ち
ました。レース後、早稲田は慶応に対して再レー
スの申し入れをしましたが慶応は「負けは負け」
としてこれを断り早稲田の勝利を称えました。”
 昭和32年の第26回大会での出来事である。
このレースは後に「あらしのボートレース」とい
う題で小学校の国語の教科書にも載ったことがあ
るそうだ。オアズマンシップ(漕艇精神)からす
ると、やはりボートを沈めない努力が・・。いや
いや、8人で漕ぐからエイトなのだ・・。当時の
新聞の論調合戦にもなったと記録されている。そ
んな雨のレガッタ。今年も何か大きなエピソード
を創って、毎日政治家先生の醜いスキャンダルの
ニュースを吹っ飛ばして欲しいね。      
 池波正太郎の写真展が開催される。熊切圭介写
真展「池波正太郎と下町の風景」。4月23日よ
り5月12日まで、台東区生涯学習センターで開
催される。池波作品のといえば「鬼平犯科帳」「
仕掛人藤枝梅安」そして「剣客商売」。彼の作品
の中に流れる正義感が、”いつの世にも悪は絶え
ない。徳川幕府は火付盗賊改方という特別警察を
設けていた。凶悪な賊の群れを容赦なく取り締ま
る為である。独自の機動性を与えられたこの火付
盗賊改方の長官こそ長谷川平蔵。人呼んで鬼の平
蔵”を創りあげたのだ。そんな池波正太郎の仕事
を離れた普段着の姿を撮り続けた熊切圭介氏の写
真は有名だが、下町浅草を中心に、古の町並みを
背景にした池波正太郎が培った”鬼平”の一旦を
満喫できる。また、会場の台東区生涯学習センタ
ーには、池波正太郎館も常設されており、生前の
書斎や小説の参考にした蔵書類を見ることができ
る。入場料は無料。             
 今朝も雨の中、下町の風景を見付けた。これか
らパチンコ屋の宣伝に出かけるというチンドン屋
さんのご出勤風景だ。なんとなく違和感もあり、
しっくり感もあるこんな格好で通ってくるなんて
、やっぱり浅草は、いつも江戸で、いつも明治で
、いつも大正で、いつも昭和で、なかなか平成の
時代が訪れない時代考証が狂った下町なのかもし
れない。あれっ、今、すれ違ったのは池波正太郎
さんじゃないでしょうか・・・・。