2002年4月15日 月曜日       

今朝の写真 
CANON EOS-D60
TAMRON SP ZOOM 24-135 F3.5-5.6
撮影枚数27枚

染井吉野
 今年の桜は早すぎて短すぎた。今の浅草は、八
重桜の一部を残して総てが終わってしまった。 
浅草寺境内には、”桜まつり”の幟りと、”桜茶
屋”が残り、仲見世や伝法院通り沿道を飾る造花
の桜も、旬さながらのように残っている。染井吉
野に代表される江戸の桜は、狂言やお芝居にも登
場し、広重の江戸名所百景などにも描かれている
のだが、それらはすべて八重桜。染井吉野は、江
戸末期の慶応年間というから明治初期といったほ
うが正しいのかもしれない。現在の東京都豊島区
内、染井村の植木屋が「吉野桜」として売り出さ
れたのが最初とされているが、それも定かでは無
い。染井吉野の名は、上野公園の桜を調査した藤
野寄命が「日本園芸雑誌」に最初に発表した。明
治33年のことで、奈良の吉野山の桜と区別する
ために「染井吉野」と名付けたという。    
 江戸の三大桜名所といえば、上野山、御殿山、
飛鳥山。特に上野山は、徳川家の菩提寺が有る所
で、この桜の時期以外は立ち入り禁止の場所であ
ったため、この時とばかりに人々が押し掛けたと
記録されている。江戸の花見を解説した書籍を見
ると、”「染井吉野」が散る如く・・・”、”花
として染井の吉野と比べれば・・・”等々。江戸
庶民文化の記述で使われているこれらの表現は、
みんな”嘘”ってことになるのだ。明治33年に
命名された”染井吉野’。広く庶民に知れ渡った
のは、日清戦争に勝利し、日英同盟を締結し、日
露の開戦を翌年にひかえた明治36年。”第五回
内国勧業博覧会”のことであった。    
 なぜヤマザクラや八重桜を圧倒して染井吉野が
普及していったか。その特徴としては、次の理由
が挙げられる。花付きがよく、満開時には花だけ
が密生して樹体全体を覆う姿が壮麗である。エド
ヒガンも同じ様な咲き方をするが、梁井吉野の方
が花が大きく、派手である。集団的に植栽される
といっそう壮観である。生長が早く、樹体も大き
く、10年で立派に観賞でき、30年もすると名
木の風格が漂う。このような特徴は、桜の名所を
つくり、にぎやかにお花見を楽しむのに適してい
る。接ぎ木が容易で、安価に苗木を供給できるこ
とも重要な点と言える。また、桜の聖地の名を冠
して「吉野桜」と名付け、ブランド志向をくすぐ
った販売戦略の成功という見方もあるようだ。 
 明治という新しい社会の機運に乗って、新しい
都・東京の桜として受け入れられていったのでは
なかろうか。            
 昨日、岐阜県高山市で、春の高山祭が始まった
。今年の飛騨地方は例年になくサクラの開花が早
く、豪華な祭り屋台と満開のサクラの組み合わせ
を見ようと、昨年より7万人多い19万8千人が
訪れたという。ホームページの案内をみると、”
高山祭は、春の山王祭と秋の八幡祭の総称で、承
王元年(1652)を、起源とする。350年の
伝統をほこる春の高山祭は、昔から染井吉野満開
に合わせた、毎年4月14・15日が祭本番。屋
台の曳き揃え、総勢800名の大行列となる御巡
幸、3台の屋台のからくり奉納、提灯が揺らめく
夜祭など、両日とも絢爛たる伝統芸能が訪れる人
を出迎える。”と、記載されているが、江戸時代
の桜は当然”八重桜”か、“里桜”の満開であっ
たのだろう。
 どちらにせよ、満開の”染井吉野”を見ている
と、昨日今日出来た桜には思えない、何か、江戸
時代より流れているような、懐かしい風情をも感
じるのである。そんな満開の”染井吉野”が見ら
れるのは、また来年ですね。その頃までに、景気
が回復していることを望みたいですね。