末広亭定点観測<特別篇>上

 ここ数年、年末年始の過ごし方って、同じなんだ よなあ。  二十九日まで仕事をするでしょ、原稿書きはだい たい夕方までずれ込むのだけれど、何とか四時過ぎ で方をつけて会社を飛び出し、地下鉄丸の内線で新 宿へ。目指すは新宿末広亭、年末特別興行の「さん 喬・権太楼の会」にもぐりこむためである。  この日は末広亭の年内最終公演。番組はもう何年 も前から固定していて、昼が正朝・右朝の「二朝会 」、夜がさん喬・権太楼の二人会と豪華版なので、 どちらかの会で「今年の聴き納め」をする演芸ファ ンがやたら多い。というか、年々増えつづけている のである。特に夜の部の混雑ぶりはものすごく、「 末広亭の二階が開く」というレアな現象を目の当た りに出来る、数少ない一日(後は盆暮れぐらいだも んね)なので、未体験の人、命知らず(?)の人に は、断然おすすめである。  もっとも、あまり混むのも考えもので、二年ほど 前には、あの狭くて前傾している桟敷席に三列に客 を入れるという”暴挙”が行われ、三列の真中に座 らされた僕は、首を左右に振る以外身動きも出来な い状態になった。そういう苦境の中で、さん喬、権 太楼両師のいつにもましての熱演がドーンとくるの だからたまらない。寄席見物というより、修行に近 いものありますね、これはもう。  で、今年の「さん喬・権太楼の会」。開演時間に 間に合わず、前座のごん白くんがしゃべりだしたと ころで入場、一階席、桟敷はもちろん満員で、選択 の余地無く「お二階へごあんな〜い」。二階席もて っぺん近くに落ち着くと、高座のごん白くんが、谷 間の百合のように(そんなにキレイではないが)遥 か霞んで見えるのであった。  で、今夜の番組である。  前座の後、太助、笑組(漫才)がつないで、権太 楼「不動坊」、さん喬「寝床」で仲入。食いつきは 喬太郎の「母恋いくらげ」で、二楽の紙切りをはさ んで、さん喬「天狗裁き」、権太楼「鰻の幇間」で 九時半過ぎにはねた。  印象は、一言でいえば、「いまいち物足りない」 。この会は、両師がその年を代表するネタをかける 、というのが暗黙の了解だったはず。権太楼「不動 坊」は、すでに前年に完成したネタであり、さん喬 「天狗裁き」は寄席の安全パイ、これが99年を代 表するとは思えない。となると、のこりもう一席と いうことになるが、権太楼「鰻の幇間」は、仕上げ 直前という感じのネタである。さん喬「寝床」は、 何ヶ月か前の落語研究会で「旦那の義太夫がうます ぎる」と不評だったもので、今回はヘタクソ方向へ の修正が成功、見事に雪辱なったわけだが、それに しても、これが今年の収穫というのは寂しい。空気 の薄い、きつきつの会場で、さん喬の「くっさい人 情ばなし」や権太楼の「コッテコテの爆笑篇」をゲ ップがでるほど堪能する。これこそが「さん喬権太 楼の会」の醍醐味であり、それがあって初めて、落 語の聴き収めといった充実感が生まれるのである。 二人にはひとこと言っとかなきゃな、と偉そうに思 う年の暮れであった。  末広亭の用事を済ませた後は、特にするべきこと も無い。部屋の掃除をして、食料を買いだめ、だら だらと紅白歌合戦を見る。チャンネルをかえるのも 面倒くさいので、そのまま「ゆく年くる年」を見な がら、そばをすする。いつも通りの退屈な年越し。 例年と違うのは、二〇〇〇年問題ぐらいなものか。 深夜のニュースで世間に大した影響が無いのを確認 して、さあ寝ようかと、コタツで丸まっていた体を 起こしたときに、異変が起きた。  胸のあたりに猛烈な痛みが走る。どこかの筋が切 れたのかと思った。引っ張られるような痛みが続い て、息が苦しい。痛くて寝ていられないので、しば らく座椅子に座って休む。いくらか痛みが和らいだ ので布団に入った。やれやれ、やっとねられるか。 と思ったら、しばらくしてまた痛み出した。今度の 痛みはちょっとおかしい。胸が痛いと思っていたら 、痛みは背中に移り、わきの下まで痛くなる。何が どうなったのか、見当もつかない。不安にかられて 救急車を呼んだのは発作が起こってから二時間後だ った。  救急隊員に様態を話すと、「循環器系かもしれな いしれない。内科に行くより、直接専門のとこに行 ったほうがいい」。とりあえず隣町の埼玉県八潮市 にあるという循環器病院に向かった。元旦の未明な んという時間に、はたして医者がいるのか。いたむ 胸を抑えながら、車で二十分。たどり着いた小さな 病院には、医師やナースがそろっていた。これは後 に聞いたことだが、この日、病院では、二〇〇〇年 対策のため、全スタッフに召集がかかっており、院 長以下全員が医療機器の点検を行い、ようやく作業 が終わって仮眠に入ったとき、僕が救急車で担ぎ込 まれたのだという。不幸中の幸い、としか言いよう がない。  症状を話すと、大急ぎでレントゲンを取った。後 に僕の主治医となる、白衣をラフにはおっ、眉毛の 濃い、若い医師が低い声で言った。髪の毛が立って いて、いかにも寝起きという、不機嫌そうな感じに 見えた。 「心筋梗塞ですね。ちょっとやばいかもしれない」  しんきんこうそく〜?無茶ばかりしてきたから、 多少体にガタはきていると思ったが、まさか心臓と は思わなかった。言葉をかえすまもなく、検査室に 入れられた。  動脈にチューブを突っ込んで造影剤を流し、心臓 部分を造影するカテーテル検査である。室内は検査 機器を冷やすため冷房が入っている。こっちは全身 裸同然で、広範囲に消毒薬を塗られたので、凍える ほどだ。寒さが不安な気持ちを増幅していく。  「詰まってるなあ。血栓で、血管の様子が見えな   いや」  「とにかく、薬で血を飛ばそう」  「場所がよくない。処置は慎重に」  局部麻酔しかしてないので、医師団のやり取りが 手に取るようにわかる。このやりとりをメモしたら 、迫真のリポートになるななどと、一瞬商売っ気が でたが、リポーターが当事者、それも患者ではいか んともしがない。それに、場所が悪いって・・。  薬品を患部に流して、血を飛ばしてみると、詰ま った血管は、やっぱり”やばい”場所だった。左心 室の中心部、主動脈が三つに分かれた直後のブラン チの一つ。詰まった血管を広げるには、患部に風船 を入れて膨らますバルーン治療や、金具をいれて固 定するといったやり方があるのだが、今回クラッシ ュした場所では、どちらをやろうとしても、ヘタを すると他の血管を封鎖してしまう恐れがあるのだと いう。心臓の主動脈が詰まってしまっては、一巻の 終わりである。どうするのか。医師たちのやり取り で、だいたいの様子が飲みこめた僕は、目の前が真 っ暗になった。こんなんなら、意識不明か、全身麻 酔で寝ていたほうがよっぽどマシである。意識があ るのがうらめしい。  医師たちは、それでも果敢にバルーン治療を始め た。ゆっくりゆっくり、慎重に慎重に。もう時間が 止まってしまったかと思うほどの沈黙の後、眉毛の 医師が言った。  「なんとか少し、血管が広がりました。でも、こ れ以上はリスクが大きいので、ここで撤退します。 この後は・・・。僕は手術を勧めますね」  ほっとした気持ちと、漠然とした不安。検査室を 出たのは、朝の八時前。病院に到着してから、三時 間が過ぎていた。検査室から集中治療室へ、ベッド ごと運ばれていく途中、一睡をしていないぼやけた 頭の中で、あと四時間あまりで末広亭の初席が始ま るのだなと考えていた。 続く


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