たすけの定点観測「新宿末広亭」

その七十二 最終回   番組 : 平成十二年五月中席・昼の部  主任 : 三遊亭円弥  日時 : 五月十七日(水)  入り : 約三十人(零時半入場時)    きまぐれに本棚の整理をしていたら、古いバインダーノートが出て きた。中身は、落語や映画のタイトルだけをざーっと書きだした、簡 単な覚書である。ノートを発見するまで、こんなことをしていたこと 自体忘れていたのだが、チマチマとした右上がりの書体は、当時「江 東区の三蹟」といわれた(なんじゃそりゃ)僕のものに間違いはない。 例によって、もうもうとした記憶の糸を手繰ってみると、どうやら大 学生活最後の二年間に見聞きしたものらしいのだ。ノートのはじめの ほうには、「柳朝の『船徳』、袴姿がりりしいぞ」とか「小三治の朗 読『鳶のうた』が収穫」なんて、えらそうに寸評やら感想やらをつけ ていたのだが、面倒くさくなったのだろう、後半は書式がえらくあっ さりになって、落語の演目と聴いた場所を演者別に書き連ねているだ けである。  ちょっと、読んでみようか。  書きだしは、六代目円生から。「正札付」の出ばやしがなると背筋 が延びるという僕のパブロフの犬現象は、この時代に培われたものに 違いない。そのぐらい、円生に心服して、東横、国立、独演会を追い かけまわしていたのだ。  当然、円生がレギュラー出演していた落語研究会の記録が多く、「 寝床」「三軒長屋」「百川」「火事息子」「後家殺し」「汲みたて」 「江戸の夢」「へっつい幽霊」「目黒のさんま」と、ここらはみんな 国立小劇場の常連席(これを取るために決死の早起きでTBS前に並 んだものだ)で聴いているようだ。次に思い出深いのが、今はなき東 横落語会。ここはホール落語としては最上等なので、もういっっっっ っも超満員だったよなあ。当然、ほんの少ししかない当日券の争奪戦 はすさまじく、東急東横店の狭い階段に二時間近くも並ばされたあげ くに、「今日はここまでです。後の方、もうしわけありませーん」と 係員に明るく言われてすごすご帰る、なんてことを繰り返してしてい たのを、今書きながら思い出して腹が立ってきた。くそお。ふーっ( 深呼吸で気を静めているのだ)、でね、なんとか会場へ潜入できたと きに聴いたのが、「五人廻し」と「洒落小町」。もっと数聴いた記憶 があるんだが、この二年間は当日券戦争で負けつづけていたのだろう。 後は労音の独演会で聴いた「らくだ」と「浮世床」に、法政寄席の「 ねずみ穴」。あの歌舞伎座独演会の「首屋」「乳房榎」「掛取万歳」 である。寄席で聴いたネタが一本もないのは、当時円生は、正月初席 以外定席に出なくなっていたからである。まだ定打ちの寄席だった東 宝名人会には、出てたかなあ。  円生以外では、彦六の正蔵に、五代目小さんのネタが多いな。二人 とも、落語研究会のレギュラーだったから、当然といえば当然だが。  正蔵は「ふだんの袴」「ぞろぞろ」「品川心中」「おかめ団子」「 五月雨坊主」「こんにゃく問答」「大仏餅」「新五郎の捕物」に「旅 の里扶持」が国立。三越落語会では「首提灯」(絶品!)「淀五郎」 を聴いた。あと、これこれ、「紫壇楼古木」。新橋演舞場別館の稽古 場でやってた二つ目の会「木挽寄席」で、ぬう生、小三太、花蝶、馬 太呂(今の名前は何でしょう)なんてとこにはさまれて、悠然とマイ ペースでやってたのが、懐かしいなあ。  小さんは、国立で「船徳」「言訳座頭」「粗忽の釘」「お神酒徳利 」「唖の釣り」「家見舞」「猫の災難」「突き落とし」「首提灯」。 東横で「提灯屋」「一目上がり」。まだ始まったばかりの「小朝の会 」(本牧亭)のゲストで聴いた「時そば」。おりしも腹は北山でね、 あまりにそばがうまそうなので、涎が出て困ったんだよな。  黄ばんだルーズリーフで数ページ。固有名詞の羅列にすぎないメモ なのに、その行間には、いろいろなものが詰まっていた。落語体験だ けではない、円生の「猫忠」(これはテレビの「落語特選会」で見た、 と書いてある)のうまさに「ニャウ」と感嘆の声を出していたころの 衣食住から実らなかった恋の思い出(三越落語会で寝られちゃって・ ・)までがよみがえってきて、狭い本部屋の隅で立ち尽くしてしまっ た。  新宿末広亭の定点観測も丸一年を数え、今日最終回を迎える。僕の 血と汗と涙と暇潰しの結果生まれたテキスト群は、すぐに忘れられて しまうに違いない。遠い将来、ハードディスクのすみっこでこのデー タを見つけた時、そのデータの行間から、どんな思いがよみがえって くるのだろうか。遠い日のノートを見ながら、そんなことを考えた。  小雨混じりの平日の午後。末広亭の入りは少ないが、のんびりして 居心地がいい。 ペペ桜井が何かさかんにしゃべりながら、ベートー ベンの「月光」を弾いている。「サイコーでしょ」「ハイ」。今日の 客席は妙に素直だなあ思っていたら、次の「花」では、手拍子が始ま ってしまった。さすがにやりにくいのか、ペペ先生、ギターの手をと めて「スイマセン、手拍子はやめてください。民謡じゃないんだから 」。  お次は、久しぶりにみる翁家さん馬。有名な稲荷町長屋の住人で、 彦六の家は百円パーキングになってしまったが、この人の住まいはま だ現役である。さらりと「道具屋」をやって、手ぬぐいを飴屋風にか ぶって珍芸「南京玉すだれ」の始まり始まり〜。ひょいと下座のほう を覗いて、「今日の三味線はおけいさん。昔は水がたれるような美人 だったけど、今は鼻たらしてる」と憎まれ口をたたきながら、「あ、 さて、あさて、さては南京玉すだれ」と言いながら、いろいろな形を 作っていく。「ちょいとひねれば、瀬田の唐橋、ごぼしないのがおな ぐさみ」と客席を見舞わし、「拍手ないのがおなぐさみ」。うまいね、 こりゃ。 ラスト、すだれをいっぱいに伸ばして「しだれ柳」を作った後、伸び きったままのすだれを担いで楽屋に向かう姿がなんともかわいい。  あああ、次の小えん治の「えん」が変換できない。この字には本人 も困っているらしく、「読めねえよって人、多いんですよね。ケモノ ヘンをとった猿なんでいて、けっして衰えるなんて字じゃありません 」と説明が入った。「そういえば、この間小学校に招かれたとき、先 生が生徒に向かって『静かに!これから奇跡が始まりますっていって んの。きせきぃ?何だろうと思ったら、『寄席』を『きせき』と読ん だんですね」。うそだい、面白すぎるぞ。  夫婦漫才の遊平かほり。力関係は楽屋でも同じという、もっぱらの 噂だが。  「湖畔のペンションなんか、いいわねー」  「え、ご飯のペンション?」  「湖畔よ、湖畔!」  「ああ、レークサイドね」  「あんたねー、レークサイドがわかって、何で湖畔がわかんないの ?」  いやはや、なんとも。  三語楼の「町内の若い衆」は、おかみさんが迫力不足。ここは、権 太楼、正朝の「だ〜れ〜」と豪快なかみさんにお出まし願いたいとこ ろである。  末広亭での「定点」も最後だから、いろいろな各度から”観測”し なければと、ここでイス席から桟敷に映った。ふむふむ、上手桟敷か らは場内の提灯が良く見えるな。正面に十一個、左右に十六個ずつ、 二階桟敷の上に九個、下に十四個もあるじゃないのと、周囲をキョロ キョロ見まわしていたら、桟敷の手すりの下でいいものを見つけてし まった。前方と後方、二箇所にゴキブリホイホイがおいてあるのだ。 さすがに中を覗いてみる気にはならなかったが、こういうのを置いて あるということは・・・・。いやいや、つまらんことを考えるのはよ そうと高座に目を向けると、小せんがお得意の「トイレ文化論」をや っていた。あーあ。  仙之助仙三郎の太神楽をはさんで、中トリはさん喬である。マクラ はいつもの通り、末広亭の場内説明。 「舞台の下手側はちょっと斜めですが、床の間になっていまして、掛 軸はあやめなんだか、ぼたんなんだか。そして前には、香炉なんだか 灰皿なんだか」とトントン説明して、さん喬もまた下座を覗いて「・ ・・おけいさん。青学出て、おはやしになったバカみたいな人で」。 おけいさん、受難の日である。  さん喬のネタは「片棒」。葬列の先頭を切る木やりの声が、りんと して気持ちよい。  仲入りに、ドラえもんチョコスナックと柏餅(なんちゅー組み合わ せだ)をつまんで虫抑え。後半は、左橋の「かわり目」から。年のは なれたカミサンをもらったせいか、軽く明るい芸に、やわらかさが加 わった。快調である。  小猫の物まね。本日のネタは、鳥のイカル。「『お・き・く、二十 四』とおぼえてくださいと説明してるんですが、この間『おきく、二 十七』というのも聞いちゃってね」。勉強になりますなー。  元気いっぱいの南喬「手紙無筆」。無筆のマクラで「あたしだって 『ご祝儀』って漢字は知ってます」というのがおかしい。  円窓は、ここのところよくかけている「夕立屋」。こちらは、「落 語はバーチャルリアリティーである」という研究発表のようなマクラ である。  ひざがわりは紙切りの小正楽。注文の一発目が「日露戦争で日本が 勝った」というとんでもないものだった。苦笑しながら小正楽が切っ たのは「群集が万歳しているところ」。この程度では、紙切り芸人を ぎゃふんといわせることは出来ないようだ。リクエストは他に「雲竜 型の土俵入り」と「招き猫」。  さて、定点観測も最後の一席。大トリの円弥が何をやってくれるの かと耳をたてていると、なんと「猫忠」である。円生門下で締めくく れるだけでもうれしいのに、その上好きなネタとは幸運である。稽古 所の師匠をろうらくした謎のコオリヨウカン。さてその正体は、とい うときに、連れのM嬢が突然プログラムを桟敷の畳にたたきつけた。 「はて、あやしや」とM嬢の手先を見てみると、こっちのコオリヨウ カンは、小ぶりのゴキちゃんであった。高座に視線を戻すと、正体を あらわした魔性の猫が、母の皮で出来た三味線を前に、「千本桜」の 狐忠信もどきに見得を切っている。円弥の向こうに、六代目円生の影 がみえがくれしているような気がした。「定点観測・末広亭」、これ にて大団円である。  とまあ、これで幕切れにしたかったのだが、「ああ、終わった」と いう安堵感で腰が立たない。桟敷にへたりこんで、この一年のあれや これやを思いだしているうちに、夜の部が始まってしまった。  前座のバンビ、鈴之助「看板のピン」、俗曲の亀太郎、蔵之助「反 対車」、才賀「首屋」、アサダ二世のマジック、吉原朝馬「浮世床」 に文平の「初天神」。「定点観測・新宿末広亭」の本当のトリは、夜 の七時ちょっと前、近藤志げるのアコーディオン漫談だった。 たすけ **************** 「定点観測・新宿末広亭」は、今回で終了です。 いろいろありましたが、一年間なんとか続けることが出来たのは、 ご声援いただいた読者の皆様のおかげです。 締めくくりにあたって、 「定点」を今まで一本でも読んでくださった方々にお願いがあります。 リポートを読んだ感想を掲示板「寄席場良」の方に書きこんでいただ きたいのです。面倒だと思ったら「一本だけ読んだぜ 山田喜三郎」 だけでもけっこうです。  ご祝儀がわりと思って、ぜひ御記帳くださいませ。 皆々様の声は、今後の企画に反映させたいと存じます。 それでは、関東の一本締め、 「イヨーッ、チョン」。 ありがとうございます。 たすけの定点観測「新宿末広亭」終了


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