たすけの定点観測「新宿末広亭」

その七十一   番組 : 平成十二年五月中席・夜の部  主任 : 春風亭正朝  日時 : 五月十五日(月)  入り : 約二十人(六時十分入場時)  土曜の午後、久しぶりに両国界隈を歩いた。  この日、京葉道路沿いの「両国シアターX」で、演芸情報誌「東京 かわら版」の通巻三百号記念パーテ」ィーが開かれる。数年前「かわ ら版」に「講談入門」を連載したことがある僕の名前も、招待客リス トの末端に付け加えられていたらしく、お呼びがかかったのであった。  シアターXの敷地は、かつての日大講堂の跡地で、さらに遡れば旧 国技館があった場所である。そして、その隣は回向院という古い寺。 この建物、こんなに大きかったかなあと見上げていたら、突然数十年 前の幼稚園の入園式を思いだしてしまった。    忘れようとしても思いだせない、というのは、亡くなった内海好江 さんのくすぐりだった、かな?とにかく僕は、自分でもあきれるほど、 昔の事をおぼえていない。大学時代の記憶はマージャンと国立の落語 研究会に関することだけ、高校時代は演劇部の連中しかおぼえてない し、中学時代はぼーっと薄靄の中、小学生時代となると、もうもうと しているばかりである。どこへ行ったとか何を見たとか、一緒にすご した親や友人はおぼえているのに本人にはほとんど記憶にない。飽き るほど年を重ねているはずのこの僕が、その貴重な(?)人生の記憶 のほとんどを失っているのである。ああ、人間の一生って・・・。  そんなに記憶力のない奴に「定点観測」が出来るものなのか。答え は簡単、「定点」の場合は、「観測」したら、忘れないうちにすぐ書 いているから大丈夫なのだ。ただ、字にしちゃったら気が緩んで、あ っという間に内容を忘れてしまう。当然、数ヶ月前の「定点」に何を 書いたかなんてまるっきりおぼえていないので、読者諸氏は著者なん か当てにせず、自分で検索するよーに。ははは。  ・・・・話がそれた。とにかく、である。かく物覚えの悪い僕にと って、幼い日の記憶は、百万光年先の宇宙空間に浮遊する塵のごとき はるかなものなのだが、どういうわけか入園式の日のことだけは、妙 にはっきりおぼえているのだ。当時、両国の南隣の深川新大橋に住ん でいた僕は、その日、母に手をひかれて竪川にかかる塩原橋を渡り、 右に出羽の海部屋、左に吉良邸跡を見ながら、日大講堂(今のシアタ ーXのビルである)の手前を左におれて、回向院裏の小さな幼稚園の 中に入った。女の先生に僕を預けた母は、もうしわけなさそうに言っ た。  「この子は一人っ子で、大人ばかりの中で育ったので、知らない子 ばかりの中では何も出来ないかもしれません。きっとぴいぴい泣くと 思いますが、厳しくご指導ください」  悔しいけれどその通りのひ弱なガキだった僕は、周囲の予想通り、 母が帰り支度をはじめると、もう頼りない心持ちになってしまい、母 の背中が門から消えないうちに、大粒の涙を流していた。なんとも情 けないエピソードだが、あのときの悲しい気持ちが、僕の記憶に残る 最古の思い出なのである。八十歳が近くなり、すっかり体力は衰えた が、口だけは達者な母にそのころの話を聴くと、 「両国幼稚園に入 るちょっと前に、あたしがあんたをおぶって、近所の演芸会に(桂) 文楽さんをみに連れてったじゃないの。あんた、落語好きだったわよ ね、あの時の名人芸、ちょっとでもおぼえてないの?」と憎まれ口を きく。ううう、文楽を見たのが最初の記憶だったら、どんなによかっ たろう。聞けば、入園式とはタッチの差。 ここだけでも時間を戻して修正できないか、真剣に考えているこのご ろである。  かわら版のパーティーは、「両国」をテーマにした落語会と、立食 パーティーだった。こじんまりとしてはいるが、暖かい、手作りの雰 囲気が心地よかった。途中からふりだした雨が、パーティーの最後に は豪雨になり、落語会で「船徳」を熱演した五街道雲助が「アタシは 家から自転車で来てんのに・・。これじゃ帰れないよ」と情けなさそ うな顔をしていた。 いろいろな人と、いろいろな話をしたはずなの に、おぼえているのは、やはり、しょうもない事(雲助さん、ごめん ね)なのが、我ながらおかしかったりするのだ。  かわら版の二日後、十五日の夕方も強い雨だった。しずくを払って 木戸をくぐると、さすがに悪天候の平日の夜である。人目で入場者数 がわかる入りなのだが、隙間風の吹くはずの客席は、両の窓を締め切 っているせいでむしむしと暑い。  高座は吉原朝馬の「まんじゅうこわい」の途中である。  「万物の霊長って何だ?」  「万物さんっていう方が居ます。それをよってたかって霊長します」  妙に丁寧な口調がオカシイ。  文平はマクラがわりに、道楽に関する楽屋情報を披露する。  「夢楽師の珍品収集がすごいのなんの。覗くと自分の背中が見える 望遠鏡とか・・。小せん師のレース編み、小さん師の家は狸を集めす ぎて、狸ばやしみたいになってます」とふって、師匠黒門町譲りの釣 りばなし「馬のす」へ入る。  黒門町と比べてはかわいそうだが、やや平板で、物足りなさが残る。 でも、「電車混むね」のひと言に、どっと笑いが入ったり、枝豆を食 べるくだりで、客席から「うーん」とうなり声がきこえたり。文楽版 と同じところでウケるのが興味深い。  「場内いっぱいの空席の中、よくいらっしゃいました」と、言いな がらアコーディオンを弾きだす近藤しげる。曲名を言ってくれないの で、なんだかわからないのが悔しいが、ま、いつもの物悲しい懐メロ である。途中、前の人がジュースでもこぼしたのか、「ガラガラガラ」 「あっ、あっ、すいませんすいません」「「大丈夫っすよー」という やり取りが、切ないメロディーに好く似合う、わけはないか。「三十 九で死んだ母が大好きな曲」と「浜千鳥」で泣かせ、最後は客のリク エストで「帰り船」。客をしーんとさえちゃわなければ、結構な芸な のだが。   かすれ声が気になる、つば女の「権助芝居」。「アメリカーン!」 な客席を前に、いつものテンションが感じられない円菊の「厩火事」。 勝之助・勝丸コンビの、親分勝之助の調子が悪いのか、落としまくり の傘の回し分け(でも、勝之助自身はいつものポーカーフェイス、何 度落としても平気で芸を続けていた)。やや低調な流れを、中トリの 権太楼が、力技で食い止める。  「相撲取りはいいですよね。何の芸もしないで、ご祝儀なんかもら える。『厩火事』なんてやらない。今場所の優勝争い、雅山含めて四 人とも勝ちました。出島は負け。あと誰か、聞きたい人います?・・・ 以上、大相撲ダイジェストでした」とかなんとか言ってるうちに、い つのまにか客席を自分のペースに巻き込んでしまう。折り悪しく携帯 電話がなりだしたが、一度火が付くと、権太楼はとまらない。「電話 ですよ。ゆっくりはなしてください。(あわてて客席後方にかけだす 客を笑顔で見送った後、しばらく無言で)・・・・・・電話の人、帰 ってっこないね。逃げたかな。ネタ入るの、待ってんのに」には大笑 いである。  結局、電話の客は無事戻って、ネタは「大安売り」。もちろん爆笑 の連続、権太楼落語はこうでなくっちゃ。  休憩時間に、伊勢丹の地下で買った、サバ、アナゴ、太巻寿司の盛 りあわせをパクついていると、今まで誰も居なかった前方の席に、四 人の若い女性客が陣取った。  「ねえねえ、ここに曲芸ってあるけど、曲が流れるの〜?」  プログラムを見ながらの会話が、楽しそうだ。聞いてるとずっこけ るけど。  後半の一番手は、円鏡の「宮戸川」。めがねをかけたごつい顔に、 美男美女の恋物語は似合わないが、色気のない分、ギャグは盛り沢山 である。  「おじさん、実は・・・」「実話も平凡パンチもねえ」(古いなー) 「(若い二人に刺激されたおばあさんが)おじいさん、今夜さゆり、 バッチグーよ」「何がさゆりだ。お前、お熊って名前じゃねえか!」  お次は、ただいま絶好調の、のいる・こいる。頭数は少ないが、万 雷の拍手である。  「つらいことがあったらさ、寄席に来てさ、忘れちゃうんだよ。は いはいはいはい、決まり決まり決まり。そいじゃ一本締めね、ヨーオ、 ポン!」  なんだかわからないが、こいるのヘーヘーホーホーにつられて、客 席全員で唱和してしまった。  円窓は「夕立屋」を丁寧に。そういえば、いつの間にか、外の雨音 が聞こえなくなった。  ひざ前の小えん(ああ、漢字が出ない。猿のケモノヘンのないやつ なのに)治、東北弁で語る「金明竹」は、この人ならではのネタであ る。東京出身のはずなのに、この流暢な(?)ズーズー弁はいかなる わけか。  「(硯をさして)すんずり」「え、なに?せん・・・・、あわわわ わ」。何やってんだか。  紋之助の曲独楽、最近は手際が良過ぎて物足りなかったが、この夜 は見事に失敗続き。刃渡りの芸で、独楽が刀のてっぺんまで行かず、 「見なかったことにしてください!」。独楽を羽子板の先に立てる芸 は四度目でやっと成功するありさまで、「あああ、すごくヘタなやつ と思われちゃう!」とアタマを抱える。 いいのいいの。紋ちゃんは、失敗も芸になってるんだからと、心の中 でエールを送った。  トリの正朝は、、まず、最近の言葉遣いの話から。  「千円からお願いします、って気になりますよね。『から』は貴店 をあらわす接続助詞、・・・違うかもしれませんが。そんなら俺は千 円かといいたい。あと、四十円のほう、おもちになりませんかとか、 枝豆になりますとか。こないだ松坂屋で『領収書ください』ったら、 『お名前様は?』って言われた」  一度上がったテンションは、不倫のマクラに入っても収まらず、  「みなさん、不倫は人の道に外れた行為といいますが、これは女に 限って言える事。男のバヤイ、わが国では、オトコの甲斐性といいま す」とたからかに言い放った。ところが、女性客の多い会場は「しー ん」。とたんに意気消沈した正朝、「まんべんなく反感を買ったよう で・・・・」。  トリネタは「りんきの独楽」。紋ちゃんの曲独楽とネタがつかない か、これ。ま、イチャモンはともかくとして、マクラで苦労した(?) かいがあって、本題は良い出来である。やきもち焼きの本妻と、負け ん気のお妾さんの間を行き来する丁稚の定吉の、子供の無邪気さと残 酷さの両面を巧みに浮き上がらせるところに、正朝のなみなみならぬ 力量がうかがえる。あっさり、さっぱりとした持ち味で、寄席のリリ ーフ役として活躍しているが、脇役に甘んじるにはもったいない人。 もっともっと、でしゃばっても、ファンは文句を言ったりしないはず だ。  雨上がりの風がさわやかな、午後九時半。ちょいとどこかへ寄りた い気分だが、こういう時は持病の物忘れが心配だ。早く帰って、今日 の高座をメモしておかなければ。 たすけ


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