たすけの定点観測「新宿末広亭」

その六十八   番組 : 平成十二年四月下席・昼の部  主任 : 三遊亭円窓  日時 : 四月二十四日(水)  入り : 約六十人(午後二時五分入場時)  四月の末にたて続けに読んだ二冊の演芸本が、妙に印象に残っている。 林家正雀が師・八代目正蔵の芸と人を語った「師匠の懐中時計」と、桂 小南治・林家二楽兄弟が父二代目正楽の思い出をつづった「父ちゃんは 二代目紙切り正楽」。どちらも、最近精力的に落語本を出版している、 うなぎ書房の新刊である。  失礼な言い方だが、二冊とも内容が地味で、著者も地味。彦六、正楽 という名は演芸界ではビッグネームに入るのかもしれないが、一般の記 憶からは薄れかけているというのが実情だろう。それでも、である。 前述の悪口を言った同じ口で、あえて言わせてもらうが、この二冊は良 書である。別に買わなくてもいい(もちろん買えばなおいいのだが)、 手にとってパラリとひとめくりすれば、二冊の真価がわかるのだ。  「師匠の懐中時計」の表紙をめくって一枚目の写真。古い町並みが映 っているモノクロ画面が、この本のすべてを語っている。  昭和初期の空気がそのまま残ってしまったような東京・稲荷町。裏通 りの木造長屋の前に、かすかにゆれる光琳蔦の暖簾の前で、これから寄 席にでもでかけるのだろうか、ベレー帽に目がね姿の八代目正蔵が、ス テッキをついてたちつくしている。一門時に結んだ口元に、頑固一徹、 曲がったことが大嫌いな正蔵の芸人魂がにじみ出ている。彦六の正蔵、 稲荷町の師匠、「ても恐ろしき」の怪談語り、「メェェェ〜」とヤギの ような声を出すオジイサン、年代や落語歴によって、正蔵のイメージは 大きく異なるが、どんな形にせよ、正蔵を知る者にとって、この写真は、 懐かしい寄席芸人の端正で、いぶし銀のような高座ぶりを、暖かく思い ださせてくれる魔法の鏡なのである。若き日の正蔵の演目帳の解題など、 内容的にも見るべきものは多いが、この写真に出会えただけでも、二千 二百円を出す価値があるというものだ。  もう一つ、「父ちゃんは二代目紙切り正楽」。こちらも宝物は、表紙 をめくったすぐの場所にあった。今度は写真ではない。先代正楽の切り 絵、十八番の「藤娘」である。お国言葉が直らず、噺家を断念して紙切 りの道へ。裏表のない、純朴な人柄が、ひと癖もふた癖もある噺家連中 の周波数と合わず、トンチンカンなエピソードを山のように残した。粋 な世界とは無縁な人だったが、その独特のおかしさを、寄席の客は愛し てやまなかった。藤の花一つ一つにまで行き届いた「藤娘」と、裏表紙 の躍動感あふれる「弁慶の飛び六法」。お国なまりは最後まで直らなか ったが、紙切り芸は江戸前なのである。二つのきり絵を目にしたら、中 身を読まずに入られない。小南治のつづる父親像、控えめな筆致がなぜ かうれしかった。  一枚の写真、一枚の切り絵が、見事にものを言う。懐かしく、好もし い二冊の本である。  次は何を読もうかと、久しぶりに紀伊国屋書店をひやかしていたら、 昼の部をだいぶ遅刻してしまった。今年の秋に三代目正楽を継ぐ、林家 小正楽の出番には間に合わず、木戸をくぐったのは、「与太郎」志ん五 が「長短」のサゲ「そーれ見ねえ、だから怒るっていったじゃねえか」 を言っているところだった。  ここから先が代演続き。小せんの代わりが志ん駒で、物まねの小猫が ペペ桜井に、中トリの文楽も小勝に代わっている。  「今朝小せんさんから電話があってね、『肩は痛いし、足も痛いし、 熱はあるし、どうしようもないから、北海道へ仕事に行く』」ぎゃはは はは。ものすごい言い訳。ここまで言われたら、笑って許すしかないな。  志ん駒は「弥次郎」をさらりとやり、「代演だからサービスね」と立 ち上がって「深川」を踊る。「さっき踊った吉窓さんにはかなわない」 と言うが、どうしてどうして、いきがいい寄席の踊りである。  「アタシは今年三月まで休みがなくてねといったら、お客さんが『だ ーからテレビに出ないのか』だって」とギター漫談のペペ桜井が憤然と している。その不機嫌な顔のままで「来週始め、NHKの『昼どき日本 列島』ってあるでしょ。絶対見てくださいね。・・・・・アタシも家で 見てますから」。面白い面白い。  代演三発目、中トリの小勝は「風呂敷」だ。これも面白くて、と言い たいところだが、熟睡してしまい、何の記憶もない。陳謝。  仲入り休憩をはさんで、後半一番手は喜多八。「血圧低いわ、虚弱体 質だわ」などとこぼしながら、意外に元気の良い「はなしかの夢」を聴 かせた後は、俗曲の柳家紫文の出番である。挨拶がわりの一曲目は、「 カエルぴょこぴょこ」。脱力系が続くなあ。  「えーっ、どうも地味な芸なので、今年から派手に行こうと。どのへ んが派手になったかというとですね・・・」  そんなことをボソボソ言いながら、「梅酒でシュワッと」の水野真紀 ばりに、着物のすそをチラッとめくる。ほほお、下は絵入りの長じゅば ん。どんな柄かまではわからんが、華やかなような気がしてきたぞ。  ラストは、最近よくやってる「二分半の勧進帳」。「安宅の関をどう 通る」「(浅田飴の缶を取り出し)これにて、セキをと〜る」。はいは い。  円菊の「粗忽の釘」。隣の年配客が「この人、酔っ払ってんじゃねー の」と連れに耳うちしている。  歌司の「鰻のたいこ」。ちとタイプは違うが、この人の口調もやや酔 っ払いが入っているような・・。 ひざ前だが、たっぷり丁寧に演じて、笑いも多い。陽気な、気持ちの良 い芸である。  ひざがわりは、こだわり漫才のゆめじうたじ。しゃれの通じない合い 方にだれるゆめじの詰め襟姿、だれかに似ていると思ったら、料理評論 家の服部先生である。  トリの円窓が出てくる前に、前座が湯飲みを持ってくる。  「ほーっ、真打は違うなあ」と、どこやらからオヤジの声。  で、当の円窓が登場するや、別のオヤジ客が「年とったなあ」。今日 の客席、面白いなあ。五百ばなしを手がけるなど、ネタの多さでは指折 りの円窓だが、ここのところ、末広ではちゃんとした(?)ネタにお目 にかかってない。ただいま研究中といった感じの民話落語か、本人が「 生涯学習講座」と称している薀蓄漫談ばかり聴かされているので、昼ト リの今日はと期待してたのだが、またまた生涯学習になってしまった。  「駄洒落は、かけ言葉と同じ。いわば短詩形の文学である」、「落語 の中に文学がある。その逆もしかり」など、「落語と文学」の考察がし ばらく続く。その後は、昔、有馬温泉で梨の花の散る夢を見て床につい てしまった秀吉を、細川幽斎が和歌で見舞ったエピソードを披露。  「大閣の命有馬の湯に入りて 病はなしの花と散りぬる。わかります か〜」  これじゃ文化講演会である。客席の反応はというと、「うんうん、そ ーかもしんねえ」とメモでもトリそうな顔で聞き入っている善男善女と、 「もうわかったから、落語やって〜」と不満顔の若い人に、はっきりと 二分されている。定席の寄席でこういうことをやるのは、もちろん悪い とは思わない。けれども、落語ファンが「トリの円窓」に、どういう高 座を期待しているかを考えてほしい。勉強熱心で、落語の地位向上をい つも考えている円窓だからこそ、「落語=文学」論をもう少し刈りこん で、ネタをやってほしかったと、苦言を呈したい。  帰り道、番組表をぱらぱらやっていると、「楽屋マイク」という情報 欄に、「『師匠の懐中時計』、当席売店でも発売予定」というお知らせ が出ていた。寄席帰りに演芸本を買うのも、悪くないな。 たすけ


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