たすけの定点観測「新宿末広亭」

その五十九 たすけ復活! 番組 : 平成十二年三月中席・昼の部 主任 : 柳家小せん 日時 : 三月十四日(火) 入り : 四十八人(午後一時入場時)  二月の半ばに退院してから、自宅療養を続けている。友人たちは「いいねー、毎日 お休みで」、「やっぱ、寝たり起きたりだよねー」「おれもやりたいな」などうらやまし がっているようだが、それがそんなに気楽な稼業でもないのである。  「いいですか、入院生活で体力、筋力が衰えているんだから、とにかく体を動かす こと。心臓もあんまり楽させちゃダメ。昼寝なんかしてないで、せっせと外を歩くこ と。サボっていたらデータに出るからね!」と主治医から厳しく言い付かっているの である。この際、ごまかしはききそうもないので、しかたがないから、毎日自宅近辺 をウォーキングである。  とはいっても、世間はまだ二月末から三月初め、季節の上では春なのだが、埼玉県 有数の“閑静な”住宅地である三郷市は、林立するマンションの隙間をビューッ、ビ ューッとつべたい風が吹きぬけるのである。そこへ持ってきて、こちとら、冬の間四 十数日間も暖房のきいた病室でぬくぬく過ごしていたから、今年の寒さに免疫がない。 ありったけの服を来こんで、決死の覚悟で家を出るのだが、寒くって寒くって、こん なことやってると心臓に悪いのではないかと不安にかられつつ、そこらを徘徊するの だから情けないハナシである。  そんな日々をおくっていたら、だんだん顔の真中あたりが痛くなってきた。どうし たことかと、市内の病院にいってみたら、副鼻腔炎と診察された。いわゆる蓄膿症で ある。鼻の奥のほうにグジュグジュと膿がたまり、そのために顔面がキリキリいたむ というのだ。  「当分通ってもらって、ネブライザーをやることですね」と、良くいえばラグビー 選手風、クサして言うとウド鈴木に似た、若い骨太の医師が言う。あちゃー、心臓外 科がすんだと思ったら、今度は耳鼻科通いかよー。病院はいいかげんウンザリしてい るのだが、顔面の痛みは耐えがたくなってきている。しかたなしに、翌日から、自宅 〜耳鼻科間の徒歩二十分の道のりが、僕のリハビリ徘徊のメインルートになったので あった。  なんとも冴えないウォーキングだが、歩いてみるとこのコース、意外に気分がいい のである。僕の住むパークフィールドというマンションエリアを抜け出ると、三郷北 部はまだまだ田園の風情を残している。右手にはススキに囲まれた静かな小川、左手 の三郷工業高校(ヴェルディ川崎の中沢の母校だそうだ)のだだっ広いグラウンドか らはサッカーやラグビーの喚声が響いてくる。中の一本道をゆっくりゆっくり歩いて いると、一足ごとに本当の春に近づいていくような気がするのである。ただ、体力が 戻りきっていない僕の歩みは亀のようにのろく、重そうな買い物篭を持ったおばあち ゃんにスイスイと追い抜けれてしまうのが、ちょっとアレなのだが。  のろのろウォーキングも半月もたてば、多少はスピードアップする。蓄膿の回復に 比例して行動範囲が広がっていき、ついには電車に乗って、新宿、上野、浅草、池袋 と東京の繁華街(すべて寄席のある街じゃないのというツッコミには、知らん振りで ある)にまで、一人で行けるようになった。  中席の末広亭にも、一人で行った。「一緒に言ってあげましょうか」と“介護交際” を申し出てくれる女性(ホントか)もいないわけでもないのだが、ここはやっぱり「一 人でできるもん」といいたいではないか。ホワイトデー用のキャンデーをいれたワゴ ンが目立つ昼の新宿をゆっくり歩いていたら、開演時間に大幅に遅れてしまった。  「では、次のご注文を」と、紙切りの二楽が、上手桟敷の着物の女性連れに話し掛 けている。「おいらん道中!」、「大相撲!」と、違う方向から、野太い男の声がかかっ て、がっくり。  お次のさん吉は、ざぶとんに座るなり、羽織をめくって「これ、裏は鯉の滝登りな んですよ。結構なもんでしょ」と得意気な様子。とっときの着物らしく、「去年の着物 ショーの仕事で、富司純子さんとごいっしょしたときに着たの」だって。にしても、 今日の末広が「とっとき」とは思えない。きっと前か後にイイ仕事があるんだろうな。 この日はいつもの漫談というより、最近出版されたCD付き小さん全集の宣伝ばかり。 「弟子全員がなにかしらコメントを書いてる上に、あたしのとった師匠の写真がいっ ぱい載ってるんです」とか。ううむ。やっぱり、これ、買おうかなあ。  目をしょぼしょぼしながら登場の文生、「スギ花粉、いつも迷惑ですなあ。あの花粉 が毛生え薬だったらなあ」と寂しい頭をつるりとなでる。「今日は目つきの悪いお客サ マが多いから、泥棒のハナシをひとつ…」。花粉症を感じさせない、けっこうな「芋俵」 でしたよ。  漫才コンビ笑組の衣装が、しばらくみないうちに派手になった。特に左手の太目の ヒト(ゆたか、だったっけ)は、黄緑のスーツに黄緑の髪。とんがらせた髪の上の部 分だけを染めているので、ゴルフ上の断面図のようだ。「なんだこのバッタとカメムシ は!と思っているでしょ」。ハイ、思っています。  花緑はマクラもそこそこに「時そば」へ。落語界のサラブレッドは、がちがちの古 典でも、何とか自分の色を出したいらしく、随所に独自の工夫を入れる。「おれはさあ、 蕎麦っくいだから、ホラ、あそこまで行くんだぜ、富士そば」がうまい。富士そばが うまい、と言ってるのではないよ、念の為。  金馬の「たいこ腹」、仙之助仙三郎の太神楽。取りたててどこがいい、というわけで はないが、手堅く、控えめな芸は、寄席には欠かせない。  仲入前は、江戸前、雲助の「家見舞」。二人で五十銭しか持ってないのに、兄貴分の 新築祝いを奮発しようと苦労する町内の若い衆、江戸っ子のいたずら心、能天気な行 状が、いきいきと目に浮かぶ。芝居がかりの大ネタが評判の雲助だが、こういうバカ バカしい噺も要注目なのである。芸のふところの深さ、というのだろうか。  「これから後半戦です。どうぞがんばって下さいって、自分が頑張ればいいんです よね」と、食いつきの源平がとぼけたことを言う。学生時代、東芝銀座寄席ではじめ てこの人を見た時は、驚いたものだ。カーリーヘヤの下に、ごぼうのような細黒い顔。 訛りの強い、独特の口調でさむーいダジャレを連発する。あの三平一門の中でも、ひ ときわ目立つ奇芸だった。それが、今久しぶりで見ると、すっかり落ち着いた芸にな っているのが、また驚きである。この日のネタは「がまの油」。油売りの長い口上を、 立て板に水とまではいかないが、破綻なく勤めた。パチパチパチと満場の拍手に、「こ の長い文句を覚えるのに、どれだけ修業した事か」といいながら、実にうれしそうな 顔をする。後半、がまの油売りが酔っ払って失敗を繰り返すくだりは、奇声を連発、「〜 ネン」という不思議な語尾に、かつての奇人ぶりが垣間見せた。「こんなガマ、末広亭 の地下にだっている」というクスグリがオオウケだったが、なんだか本当に居そうな 気がするのがコワイね。  夫婦漫才、遊平かほりの衣装がどんどん垢抜けてきた。特にダンナの遊平。かほり のワンピースに合わせて、ネクタイのオレンジが利いている。細縁のめがねも今風だ し、笑組の奇怪なセンスとは一味違ったオシャレである。ネタの方も好調で、  「あたしのおしゃべりなんてデビ婦人に比べれば、たいしたことないわ」  「そうかい?むちゃくちゃ言うとこなんか、似てるじゃないか」  「あたしは第三夫人じゃないもの。ま、あんたにそんな甲斐性はないけど」  話ながら、どんどんマイクの中央に出張っていく、かほり夫人。それに合わせてじ りじりと後ずさりする遊平がオカシイ。  扇橋の代演に文朝が出てきた。「扇橋はここよりちょっと良い仕事があって」と新山 真理のような語りだし。「まあ、いまさら扇橋の落語を聴いても、何の得るところもあ りません。今日のお客サマはラッキーで」と散々な言いようである。ヘタに寄席を抜 くと、ろくなことは言われない。とすると、今年一度も出社してない僕は、何を言わ れているのだろうか、考えるのも恐ろしい。  ネタは「子ほめ」。物知りの隠居に重みがあるので、教えるほめ言葉に説得力がある。 「子ほめ」は文朝のが一番と、僕は密かに思っているのだが。  襲名して半年あまり、けっこう貫禄が出てきて、名前負けを感じさせない馬生。「え ーっ、今まであんまり色男が出てきませんでしたが、この辺で出さないと…」。ヌケヌ ケというところが、新馬生の味である。「長屋の花見」の半ばで立ちあがって、端唄の 「夜桜や」を、粋に踊った。    ひざ代わりのアサダ二世。「それじゃあね、今日はね、あれですよ、ま、何かやりま しょう」。いつも同じ挨拶も、久々に聴くと、ちょっとうれしかったりして。  昼の部の締めくくりは、小せんの「風呂敷」。主任で熱演するより、スケでさらりと 流すほうが、味の出る貴重なバイプレーヤーである。この日のトリも汗を流さぬ好演。 五代目志ん生そのままの演出で、「お前なんか、あってもなくてもいい。シャツの三つ 目のボタンみたいなもんだ」という有名なクスグリも使っていたが、これがウケない。 「これ、全然ウケなくなっちゃったなあ(とため息ついて)。古いのかな。(首をかし げながら)呼吸が悪いんだよな」には笑った笑った。  今年初めての「一人で見物」。調子がいいので、Xに負けずに「通し」に挑戦しよう かと思ったが、リハビリの途中だったことを忘れていた。帰りは埼京線を使って、武 蔵浦和乗換えで、武蔵野線の新三郷へ。一時間ちょっとの道のりがだんだん近く感じ るようになってきた。本当の春まであと少し、なのかもしれない。 たすけ


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