たすけの定点観測「新宿末広亭」

その五十八 たすけ復活! 番組 : 平成十二年三月上席・夜の部 主任 : 春雨や雷蔵 日時 : 三月五日(日) 入り : 二十五人(四時四十七分開演時)  Xと一緒に落語をみたのはいつ以来のことだろうか。当時は、鑑賞メモを書くこと まで気は回らなかったし、プログラムを保存するほどマメでもなっかった。たよりな い記憶の糸をたどってみても、糸の先にはもうもうとした混沌があるのみである。  昼の部の終わって、夜の部が始まるまでの、あの間の抜けた待ち時間、弁当を食う のも忘れて(弁当、本当に忘れた!)、あれでもなし、これでもなしと首をひねってみ たが、結局二人で最後にみた寄席は思い出せず終い。ただ、落語会ということになる と、就職した年かその翌年かに東京・千石の三百人劇場で催された志ん朝の連続独演 会じゃないかということで、意見の一致を見た。当時四十代で、芸の勢いがピークに さしかかろうとしていた志ん朝が毎日二席ずつ、七日かそこら連続で演じてくれるの だ。僕は栃木、Xは新潟と、お互い駆け出しの地方勤務。落語見物などしている場合 ではなかったのだが、我々がドサ回りをしている間に、円生はパンダと同じ日に死ん じゃうし、彦六の正蔵もそろそろ危なくなってきた。このうえ、めったに独演会をや らない志ん朝の記念すべき連続独演会まで逃すわけにいかんじゃないかと、示し合わ せて無理やり東京へ出てきたのである。  しかし、どのネタを聴いたのかというと、これがはっきりしない。七日間の独演会 のうち、二日か三日は見ているはずなのに、一つもネタが思い浮かばないというのは、 どうしたことだろうか。その時の音は、ほとんどCD化されていて、今も入手可能で ある。このうちのどれかに僕やXの笑い声が入っているのは間違いないこと。うちに 帰って耳を澄ませて聴けば、どのネタかが明らかになる……、可能性は薄いだろうな あ。  Xと僕がむなしく記憶力を総動員している間に、昼の部のメーン客であった小学生 の団体サマは引き揚げてしまい、それにつられてか、百人以上はいたはずの一般客も あたふたあたふたと帰っていく。夜の部の開演時には桟敷はがらがら、イス席もパー ラパラ。X版定点観測でしつこく描写されていた「日曜夜の隙間風吹く客席風景」と いうのは、これだったのか。隣のは、この状況に慣れきってしまったのか、「それがど うしたの」という顔で、感嘆の声をあげる僕を冷ややかにみていた。  開口一番の里光、マイクの取り付けを忘れたようで、出てくるなり高座をうろうろ。 「えーっ、わたくし、こんな作業のために出てきたわけではなくて、えーと、その、 これから一席やらせていただくんですが…、えと、その…」と、すっかりリズムを狂 わせてしまった。おどおどしながら、小噺をやって早々に退散である。  二つ目は鯉枝の「まんじゅう恐い」。平板で、ぶっきらぼうにも聞こえる語り口が個 性になりきっておらず、単なる素人口調に聞えてしまう。もう二つ、三つ聴いて見な ければわからないが、しっかりしましょう、とあえて苦言を呈しておく。  「半農半芸」が売り物の兄弟コンビ、コントD51。スリッパを頭に括り付けての、 お相撲コント。兄弟がじゃれあって遊んでいるような、「ごっこ感」がこのコンビの “色”なのであろう。素人っぽさもこういう方向に発揮されれば、ほほえましいのだ。  円丸の「持参金」は、師匠小遊三譲りのネタ。随所に独自の工夫があるが、縁談を 進めに来た隠居が、主人公に向かって「無妻かい?」と聴くのはどんなものだろうか。 後で「無妻」と「ムサい」の取り違えをクスグリにする都合があるのだろうが、いか にも不自然な展開である。  伸治は軽い持ち味を生かして大ホラばなしの「弥次郎」を。さみしい客席を意識し てか、やたら声を張りあげている。  手堅く笑いを取るローカル岡の漫談も、この夜は不発気味。イバラギ談義を大急ぎ でやって、さっと高座を下りた。  昼は子供の団体に意識過剰になり、夜は少ない客にとまどう。今日の楽屋は大変だ ろうなとは思うが、昼夜通しの我々(正確にはXだけだが)はもっと欲求不満である  どうなることやらと思い始めた中盤戦、南なんの個性が、番組の流れを変えた。  ネタは「夏泥」。最近、「転宅」、「めがね泥」と泥棒ネタを意欲的にかけている南な んだが、間抜けな泥棒ほど、この人の個性にあったキャラクターはいない。「夏泥」も、 「慣れないばかりに一文なしの家に入ってしまった泥棒の困惑ぶりを描くハナシなの だが、南なんは、泥棒に入られた方の描き方が面白い。この一文なし、世の中に絶望 し、まったく元気がないのに、要求するものはしっかり要求してくるという、やっか いな男。テンポののろい、うじうじとした話をえんえん聞かされる泥棒のイライラぶ り、「えらいとこに入っちゃったなあ」という後悔が確実に伝わってくきて、客席の笑 いが漣のように広がっていくのがわかるのだ。二人の登場人物のやりとりが、何かに 似ているなあと思っていたら、「『長短』じゃねえか」とXが看過した。お見事。  南なんの力の入っていない熱演で客席をほぐれたのを見計らうように、新しい客が 入ってくる。次の栄馬の出番の半ばあたりで、五十人ほどまで増え、一安心である。 酔っ払いネタの「かわり目」は、千鳥足で家路をたどる主人公が家の前で人力に乗る まで、本題に入る前の演出が丁寧である。赤い郵便ポストにぶつかって、「おい、お前 の酒の肴はハガキかい?」とからむくだりに、庶民の生活感があふれている。  喜楽・喜乃の太神楽、笑三に「一部線香即席噺」と好調な高座が続いた後は、古風 なたたずまいの実力派の小柳枝。「待ってました!」の声に相好を崩し、「一生懸命や らないといけませんな」と、季節のネタ「長屋の花見」に。  「上野公園も最近はアラブのほうの方がいっぱいいるんですが、花見の時期は大丈 夫なんですな。あの人たちは、サクラじゃなくて、ランが目当て。イランとかテヘラ ンとか…。で、何してるかと思えば、油売ってるの」と、マクラは今風だが、本題は、 江戸の香りが濃厚に漂う。  「こくぶけんさんが、他のちょっといい仕事に行ってしまいまして」と登場の新山 真理。定点観測を始めてから、このセリフ、何回聞いたことだろう。寄席をたいせつ にしているのか、それとも単に暇なのか。  中トリ、夢楽はたっぷり二十分かけて「町内の若い衆」を。丁寧に演じたというよ り、チョーゆっくり口調のせいだろうなあ、これは。  幸丸の代演、右京の漫談、しゃべらない小天華のマジックと短い高座が続いた後半、 茶楽がいきなり大ネタの「子は鎹」をしゃべり出した。嫌いで別れたわけでもない我 が子と三年ぶりの再会。いくらでもクサく、というか思い入れたっぷりに演じること ができる噺だが、茶楽は持ち前のソフトな語り口で、さらりと語っていく。ことさら 声を張り上げるでもなく、泣かせようと力むわけでもないが、子供の額の傷に気づい てふと口ごもる父親の描写の裏側に、万感の思いを垣間見せる。もっと、評価されて いい噺家ではないだろうか。一つだけ文句をいわせてもらえば、トリの前にこんなネ タを聴いてしまうと、満足してしまい「んじゃ、帰るか」という気になることである。 まだ演芸は三本もあるんだからね。  お次は寿輔の代演、遊吉の出番だ。この人も同様の「地味目な実力派」だ。独特の 色気がある茶楽に対して、さらりと淡白な味わいが身上で、「子は鎹」に引きずられる ことなく、マイペースで「人形買い」を語っていく。さっぱり風味だが、意外にしっ かり味がついている。薄口醤油のような芸である。  扇鶴の三味線をひざ代わりに、トリの雷蔵が登場。この人も、どちらかというと古 風な芸風だが、茶楽、遊吉と比べると、ぐっと骨太である。明るくはっきりした発声 で、とんとんと噺を運んでいく、楷書の芸といえるだろう。トリネタは「蒟蒻問答」。 上州路の古寺を舞台に、一癖ありそうな蒟蒻屋のオヤジが、めちゃくちゃな作法で禅 問答をしかけてきた修行僧を撃退する。この粗っぽい物語を、雷蔵は明快な演出で絵 解きをしてくれる。惜しむらくは、もう一匙艶っぽい隠し味をとも思うが、まずは及 第点以上。いい出来である。  久しぶりの寄席見物で火照った頬を、まだうす寒い風にさらしながら、新宿の表通 りを歩く。  「実は転勤でね」と、Xがぼそぼそ話し出した。 急な人事異動で東南アジアのな んとかいう街へ赴任が決まり、駐在期間は五年という。十九年ぶりに一緒に寄席見物 ができたと思ったら、また長いお別れである。とりとめのない話をしながら靖国通り をそぞろ歩き、歌舞伎町の入り口の定食屋でうどんをすすって、右と左に分かれた。 それ以来、Xからは一通のメールも届いていない。 たすけ


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