たすけの定点観測「新宿末広亭」

その五十六 番組 : 平成十二年二月下席・夜の部 主任 : 柳家権太楼 日時 : 二月二十七日(日) 入り : 約三十人(四時四十八分開演時) 報告 : ミスターX  末広亭で昼夜通しの見物をしようという客は、それほど多くはない。はじめから終 わりまで全部見たら九時間半。イスは硬いし、桟敷は傾いてるし、空調は気まぐれだ し、売店のラインナップもむむむむむ、なのである。そうした艱難辛苦(?)を乗り 越えて居座る客は、よほどのマニアかひま人か、それとも気が弱くて帰りそびれたか (「途中で帰った客の九十四パーセントは末広亭を出たとたんに不慮の事故にあう」な んて脅かす噺家もいるのだ)、二月最後の日曜日である今日も、昼の部のほとんどを聴 いてさらに居残るという客は、十人ちょっとというところだろうか。何でそんなこと までわかるのかというと、僕と同類の客が何人いるか、昼の部の間中ずっとチェック していたからなのだった。われながらあきれたもんだが。  さてはや、ようやく昼の部が終わって折り返し点に到達。これから、夜の部が始ま る十五分あまりの時間をどう使うかというのは、けっこう難しい問題なのだ。お茶子 さんたちが簡単なお掃除をするのを呆然と眺めた後は、もうやることはない。晩飯に は早いし、プログラムなんか昼の部のうちにスミからスミまで読み終わっている。だ からといって、見ず知らずの女性客に「トリの権太楼さん、楽しみですねえ」などと 話し掛けるほどの度胸もないのだ。  今日は腹が減っていたので、半端な十五分は弁当タイムにしようと思ったのだが、 「天一の天丼」がうまくてうまくて、わずか三分で食べ尽くしてしまった。のこり十 二分、ますます半端な持ち時間だが、貧乏性の僕はただぼーっとしていることが苦痛 でたまらない。しかたがないから、最近暇を見ては少しずつ読んでいる古本を取り出 した。江国滋の「落語無学」。名エッセイストの若き日の「落語三部作」の三作目(あ と二つは、「落語手帖」と「落語美学」)である。初版は昭和四十一年とのことだが、 そのころ小学生だった僕は少年サンデーに夢中で落語の本な読んでる暇はなかった。 僕の持ってるのは、昭和五十七年に出た今はなき旺文社文庫版(緑の装丁がなつかし ー)で、何を血迷ったかカターイ会社に就職してしまい、寄席に行く時間がないので やむなく通勤電車で落語本を読み漁っていたころの愛読書であった。たすけの見舞代 わりにと「定点観測ごっこ」を始めてから、急に懐かしくなって本棚の奥の奥からひ っぱりだしてきたのである。  落語の演出、江戸っ子、江戸落語と上方落語、芸談、新作論など、落語に関して我々 が思いつく大抵のテーマが網羅されているが、研究書というより、軽いエッセイにし あがっている。内容的には物足りない部分もあるのだが、手練の文章でついつい読ま されてしまうのである。ぱらりとめくった中ごろの掌文は、たった一人で落語会を見 なければならなくなった話だった。知り合いの若手から新しい「レストランで落語の 会を始めました。ぜひ」との手紙を受け取って応援に出かけたら、なんと客は江国一 人だけ。後ろにレストランのスタッフがずらり並んでいるので帰るに帰れず、とはい え、高座の噺家と目をあわすことも出来ず、目の前のハンバーグをぱくつきながら最 後まで聞いていたという恐ろしいハナシ。そのときの出演者は、さん治、さん八、吉 生。二ツ目時代の小三治、円窓、扇橋だったという。  僕も学生時代、池袋演芸場で、出演者十二人に対して客三人などという絶望的状況 に遭遇したことが二度、三度あったが、これはもう、寄席見物どころではない。落語 はただ聴いていればいいから、まだいいのだ。問題はいろもの、紙切りの注文は出な いし、客とのキャッチボールが基本となる漫談、客いじりをネタに組み込んだ漫才な んてのは、もう大変。隙間だらけの客席のあちこちにシラケ鳥が飛び交い、視線のや り場に困る。寄席側も慣れたもので、少ない客を返してはならじと仲入なんかすっと ばして、休むまもなく芸人を高座送りこんでくるのだ。あの寄席と客席のむなしいけ れど、火花散る熾烈な戦いを思い出し、ふと不安になってまわりを見る。ひいふうみ い、とにかくつばなれ(十人以上いるということだ)はしているな。よしよし。  そんなことをしているうちに夜の部の開幕だ。開口一番はごん白「子ほめ」、続く二 ツ目、さん光の「たらちね」。この夜のトリ、権太楼の弟子が続けざまに出てきたが、 師匠の芸風に影響されるのか、二人とも骨太ではっきりしたデッサンの噺をする。  早上がりの小正楽は、「相合傘」を三十秒ほどで切った後、注文に応えて、「弁慶の 飛び六法」、「舞の海」、「ポケモン」を。出来あがったピカチュウに、「カワイー」とい う、末広亭ではついぞ聴いたことがない、若い声が飛んだ。思わず振り向くと、後ろ は年配の女性ばかり。誰の声だったのだろう。  「寄席の玉三郎、別名病み上がりの舟木一夫」というツカミが、いつも大ウケの志 ん上が達者な漫談を披露。ニヤニヤ聴いているうちに、先ほど食べた弁当の消化が進 んできたらしく、目の皮がたるむぅーー。次の志ん橋、その次のアサダ二世のネタ、 ついにわからず終いである。ま、アサダのマジックはだいたい想像つくが。  つば女の漫談に精彩がない。相撲風景から、目白の一門がよくやる「小さんが園遊 会に招かれた時の話」へ。小さんはともかく、同じ園遊会に招かれた競輪の中野、柔 道の山下の話を延々とするのはいかがなものか。人もエピソードも古すぎて、今の笑 いと結びつかない。かつて、たすけと一緒に寄席通いをしている時、襲名したてのつ ば女の芸は若々しく、機知に富んでいたはずだったが。  円蔵の「道具屋」もかつてのむちゃくちゃなパワーがなりを潜めてしまった。ただ、 類まれなサービス精神だけは健在で、いきなり「次の漫才、えぐみって読むの。これ、 おもしろいよー」と楽屋に向かって大声でエールを送ったりするのだ。  その笑組、いつもは、「ただいま、どなたからも紹介されませんでした、笑組です」 といって出てくるのだが、今日は円蔵に紹介されちゃったからなあ。「ただいま、ご紹 介にあずかりました」で始まったが、なんだかやりにくそうなのがオカシイ。  久々に見る馬楽の「寄合酒」。この人、こんなにジジくさかったっけ?暇を持て余し た長屋の若い連中が、ワイワイガヤガヤ、飲み会をするという噺なのに、中年オヤジ の宴会みたいに聞えてしまう。まだまだ老け込むような年でもあるまいし。頑張って いこうよ、お互いに。  対照的に、市馬の「のめる」は、描写のみずみずしいが光った。お互いの口癖であ る「つまらない」、「いっぱい飲める」を口にしたら罰金を払う、という決めをした二 人が、何とか相手に口癖を言わそうと知恵を絞る。子供のような意地の張り合いが、 なんとも愉快。長屋のわかいもんの稚気を、楽し気に見る市馬の視線が、温かい。  「あら、山田五十鈴さんがみえたのかと思いませんでした?」と、さらり言っての ける俗曲の明石寿々栄。うーん、ちょっと苦しいかも。とはいえ、古風な味わいは貴 重なもの。今時「殿方」なんていう女性は、珍しいよな。「梅は咲いたか」「春風がそ よそよと」と端唄をきかせて、都々逸へ。「目から日の出る 所帯でさえも 火事さえ 出さなきゃ 水入らず」。ようよう。  中トリ小燕枝の「権助提灯」も昔の味。このネタ、最近あまり聴かないなあ。  権太楼一門では、ひとり骨太な感じがしない三太楼。人のよさがにじみ出る高座に 好感が持てる。この日のネタ「動物園」もニンにあった噺。「ウーッ!アンパン食いて え、ウーッ、アンパン食いてえ」とねだるライオンがかわいい。  のいるこいるの代演、三味線漫談の紫文は「演芸界の久米宏」が売り物。つるりと した醤油顔だが、最近の久米ならヒゲをはやしてくんなきゃね。「火盗改めの長谷川平 蔵が、いつものように両国橋のたもとを歩いていると」と、おなじみの鬼平ネタで笑 わせた後、珍しく「勧進帳」を出してきた。「一時間かかるのですが、今日は二分ぐら いで」。いやいや、けっこうな二分強でした。  扇橋はこの日も「二人旅」。このネタ、ほんとうによくかけてるなあ。   「昔はねえ、日曜の夜といえば、超満員だったんですけどねえ、今は、うち帰っちゃ うんですよねー」と、三十人余りの客を心細げに見まわす正朝。「昭和三十三年三月三 十一日。吉原がなくなった日の朝、新聞を見ながら悔し涙にくれた」って、いくつな んだ、正朝。  「吉原に行くのに、一番いいのは田原町。一番前で下りて、進行方向にタクシーの ると、言問通りにぶつかる。通りを突っ切って、最初の信号が千束の五差路。これを 右斜めに入ってNTT吉原局、台東病院があって、これを道なりに右に行くと、二つ 目の信号が吉原交番で、ここから先がソープランド街。最初に目に付くのが、『六月の 花嫁』で…」   「黄金餅」の道中付けを思わせる、詳細な吉原アクセス案内。思わずメモしちゃった じゃないか。これだけ丁寧に吉原のマクラを振ったのだから、何か珍しい廓ばなしか と期待したら、「六尺棒」だって。これって、廓ばなしなのかなあ。若旦那が朝帰りし てきて、オヤジと家に入れる入れないで大喧嘩をするという噺でしょ。吉原と関係が ありそうなとこは、朝帰りだけじゃないの。ねえ。  ひざがわりは、いつも自信たっぷりの勝之助と、最近少し自信がついてきた感じの 勝丸。太神楽の師弟コンビは、傘の上でいろいろなものを廻す芸。客席から投げられ た鞠を傘で受けとめる。「ぼくはなんでもできるよ〜ん」といった感じの勝之助の不敵 な面構え、僕はけっこう好きなんだが。  長い寄席見物の大トリに、権太楼を聴けるのは、うれしいことだ。客が薄かろうが 甘かろうが、いつでも手抜きなし。それどころか、条件の悪い寄席で、人一倍張りき るのが、この人の男気なのだろう。この日のネタ「茶の湯」は、閑静な根岸の里を舞 台にした爆笑落語。作法も何もない、でたらめな茶の湯を笑うといった単純明快な噺 だが、モノが茶の湯だけに、爆笑篇といっても、普通の演じ手は、多少風流な感じを だそうとするものだ。ところが権太楼は、これでもかこれでもかと力技で笑いを引き ずり出してくる。ここはやはり、前半で茶の湯の風雅な感じを出し、後半のむちゃく ちゃさと対比させたほうが、笑いのボルテージは上がるのではないだろうか。などと 考えるのだが、実際は、権太楼の熱演に圧倒されて、こちらはただ笑うばかり。理屈 を超えた芸のパワーとしかいいようがないではないか。  二か月間、計十二回に及んだミスターX版「定点観測」も今回でひと段落。次回か らは、本職のたすけが戻ってくるはずだ。たすけの空白をどれだけ埋められたか、ま ったく自身はないのだが、末広亭の客席にいる時、僕はなぜか、いつも隣の席にたす けがいるような気にがしていた。そして、「定点観測ごっこ」を続けながら、授業には ほとんど出ず、バイトに明け暮れ、中途半端な自分のままで社会に出ることへ不安を 抱えながら、寄席の客席で息を潜めていた、あの二十年前の僕とたすけの姿を思い出 していた。末広亭の古い椅子席は、懐かしさやむなしさや中年オヤジの感傷をしみこ ませて、あんなたそがれ色になったのかもしれないと思った。 ミスターX


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