たすけの定点観測「新宿末広亭」

その二十八 番組 : 平成十一年十月上席・昼の部 主任 : 古今亭志ん輔 日時 : 十月八日(金) 入り : 約四十人(午後一時入場時) リポート  新聞記者などという仕事について、もう二十年が たってしまった。 な・の・にー、である。いつまでたっても原稿書き のペースがつかめないとはどういうことなのだ、い ったい(誰に言ってるんだ)。 「天ぷら屋の竹さんのところに泥棒が入ったけど、 すぐに挙げ(揚げ)られた」てな感じのしょーもな いネタなのに、いつまでたっても仕上がらない。か と思うと、「人間の意識の深淵がどうたらこうたら」 とか、やってて頭が痛くなるような難解なインタビ ューなのに、すらすら原稿化できちゃうこともある。 この気まぐれな脳細胞を何とかしないと、たすけの 理想である「歌って踊れる新聞記者」じゃなかった、 「アームチェア・ジャーナリスト」への道は遠ざか るばかりである。 で、十月六日の夜、我が脳細胞は、出来の悪い日で あるようだった。変に頭が重くて、ちーとも考えが まとまらない。時計を見ると夜の七時半を過ぎた。 ええい、ままよ、寄席にでも行って気分転換をはか ろう。衝動的に席をたって、池袋演芸場へ向かった。  これから新宿末広亭のリポートを書かんとしてい る、このせっぱ詰まった状況で、池袋なんかに行っ てていいのかという内なる声を無視して、大手町を 出た地下鉄丸の内線は、十四分で池袋に着いた。こ の時点で八時十分。あと五分以内には本日のトリ、 柳家小三治が高座に上がってしまう。それ以前に、 演芸場の木戸が閉まっているかも知れんと気がつい たが、ここまで来ちゃったんだからしょうがない。 とにかく行ってみようと、池袋西口でくだを巻くリ ーマンや、ウンコ座りの顔グロねーちゃんや、今晩 の宿泊準備に忙しいホームレスの方々をすり抜けて、 池袋演芸場へたどり着いたが、遅かりし由良之助。 チケット売り場のの明かりは消え、チラシのたぐい もきれいに片付いている。あちゃー間に合わなかっ たかと、地下の客席に続く階段を覗き込むと、演芸 場の半天をひらひらさせながら降りていくのは、番 頭の進藤さんではないか。 「すっ、すみません。入っていいですか」  思わず大声が出た。こちらの勢いに押されたか、 振り向いた番頭さんは「あ、いいよ」の一言。 よかった〜。冷や汗をふきながら客席のドアを開け ると、ちょうど上がったばかりの小三治が、ゆっく りとマクラをふっているところであった。  ふう。目の前の補助椅子に腰を下ろして、一息で ある。小三治のマクラは、いつものとおり、あっち へいったり、こっちへ来たり。脇に置いた湯飲みを 取るタイミングについてのうんちくから、昔の音曲 師の思い出に移り、引退同然の滝の家鯉香の家に「 アタシのトリんときだけでいいから」と出演交渉し にいった話のあたりから、こちらの調子が悪くなっ た。くしゃみ鼻水鼻づまり、あああ、風邪だ。今夜 の不調は脳細胞ではなく、耳鼻咽喉のせいであった か、と気がついたが、この段階ではどうにもならな い。とにかく演者や客に迷惑のかからぬようと、あ とは鼻にハンカチをあてっぱなし。間の悪いことに 小三治のマクラは、行き当たりばったり。つっかえ つっかえで話すから、こっちが隙を見て「ぶしゅん」 と一発やろうとすると、いきなり沈黙がやってきた りするのである。「なんでもいいからネタに入って くれ〜」という魂の叫びを飲み込みながら、この夜 のネタ「厩火事」に入るまでの三十数分の苦行に耐 えた自分を誉めてやりたいぞ。くっそー。  というわけで、小三治の落語と同時進行で始まっ た風邪が治らず、定点観測の余力がない。とはいえ 上席も残りわずかになってきた。しかたがない。末 広亭が人にやさしい寄席かどうか、人体実験のモデ ルになろうじゃないの。  この間の池袋でもらった落語協会誌「ぞろぞろ」 の最新号をテケツに出して二百円引き。「ぞろぞろ」 割引があるなんて、つい十五分前まで知らなかった ぞ(電車の中で読んでて気がついた)。 高座を見ると、夜席の馬生襲名披露興行の引き出物 がそのままずらり置かれている。ただ、鮮やかな後 ろ幕は片づけられているから、客席から見ると、地 味なような派手なような、中途半端な高座である。 ひょこひょこと登場した志ん橋が、マクラもそこそ こに「岸柳島」。隅田川の渡し船の上で起こった果 たし合い騒ぎを、ドスの効いた声を生かして陰影豊 かに語り込むが、どういうわけか客席から笑い声が 起きない。数が少ないせいもあって、客が固まって いるようだ。  お次の川柳が開口一番、「なーんだ、こんなにい るんじゃないの。お客さん、もっと笑いなよ」。 桟敷の一番前の、ちょっと暗めの高校生二人に気が ついて「学校は行ったほうがいいよ。あと、もうち ょっと笑ってね」といじりまくり、客席に向き直る と、を目ざとくスポーツ漫談で客をほぐしながら、 「会社で慣れてるからって、みーんな隅っこにいて。 アタシも屈折しててね、いろいろあったんだよ。よ しわかった、時々いらっしゃい。お互いの傷をなめ 合おう」。言いたい放題なのだが、固かった客席が 次第にほぐれてくるのが不思議である。  ゆきえはなこの代演、アコーディオン漫談の近藤 しげるが、得意の野口雨情モノを聞かせる。 途中入場の団体に一人、うるさいおじさんがいたの だが、「赤い靴」の熱唱には声も出ず。小せんは漫 談「トイレ文化論」をさらりと、権太楼の代演、一 朝が季節ネタ「目黒のさんま」をイッチョウケンメ イに語る。  仙之助仙三郎の太神楽を挟んで、中トリ右朝は「 へっつい幽霊」。登場人物を減らした短縮版だが、 クライマックス、気が強い町内の兄いと、へっつい から出てきた幽霊の丁半ばくちを粋に演じて、大ネ タの風格を残した。  休憩時に、駅ビルマイシティ地下で購入した「お こわ弁当」をかっこむが、風邪で味覚がにぶってい るのか、ちっともうまくない。半分残して片づけ始 めたら、もう食いつきの歌武蔵が出てきた。 と、上手桟敷から「でっけえなあ」の大声。先ほど のうるさいおじさんである。「やかましいっ。あん た評判悪いよ」と歌武蔵の逆襲。顔は笑っているが、 あの体ですごまれると迫力がある。気合負けしたお じさんは、ごろり横になって、桟敷の手すりから足 の裏だけを見せている。高座そっちのけで桟敷を見 ていると、今度は従業員にしかられたらしく、のそ のそと起き上がって今度は手すりにあごを乗せてい る。何しに来たんだろうね。  太田家元九郎の津軽三味線版パイプライン(ベン チャーズのアレである)にやんやの喝采が上がった 後、「○○製材所の皆様、お時間でございます」の アナウンスがあって、件のおじさんたちがぞろぞろ 退場、これから飲み会か、はたまたすでに酒が入っ ていて、はやご帰宅か。ま、どうでもいいけどね。  下座が居眠りでもしたいたか、つっかえつっかえ の「芸者ワルツ」にのって、志ん五が登場。 「今日は子供さんがいるなと思うとドラえもんやサ ザエさんの話。中小企業の旦那が多いなとみると、 マルクスの資本論を語り、年寄りばかりだなーと思 えば、どこそこの火葬場が安いなんて話をするんで すよ」といいながら「真田小僧」に入る。今日はど んな客層だったのだろうか。  円窓はいつもの生涯学習講演(てなことを自分で 言っている)ネタ「落語と仏教」。説教臭い話ばか りかと思うと、「ワープロは何でも変換する。北方 領土と打ってもすぐ返還(変換)してくれる」と時 事ネタをふったりするので、ふんふんとうなづきな がら聴いてしまうのだ。  人気者のいるこいるが露払いをして、昼の部のト リは志ん輔である。酒飲みのマクラをたっぷり振っ て、大ネタ「試し酒」。こいつはちゃんと聴こうと 身を乗り出したのだが、さすがにちょっとしんどく なってきた。中入り前後、会場がやや蒸してきたこ ろから、上手のクーラーを動かし始めたのだが、そ こはそれ、末広亭のクーラーは、たすけの脳細胞以 上に気まぐれなのである。 音ばかりうるさくてちっとも涼しくならなかったり、 ここは八甲田の山中かと思うほどキンキンに冷えた りと、その日になってみないとわからない。今日は 後者だった。冷え過ぎ。体調不十分のたすけは、空 席が多いのをよいことに、かにのように席を数回ス ライドさせてみたが、冷風がこたえる。しかたがな いので、姿勢を低くして風を裂け、ジャケットを毛 布がわりにかけて目だけ出しての見物である。  この日の「試し酒」は三十分を超える熱演。クサ さが売り物でもあり、邪魔にもなる志ん輔の個性が 良いほうに出た、気持ちの良い高座だった。調子の いい時に聴いてたら、この数倍は誉めたいところだ が、言葉が見当たりない。申し訳ないと、心で謝っ て木戸を出た。今日はこれから、会社に戻って夜中 の一時半まで夜勤だった。ちょうど振り出した雨に 背中を押されるように、地下鉄の駅へ通じる階段を 急ぎ足で降りていった。 たすけ


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