たすけの定点観測「新宿末広亭」

その十九 番組 : 平成十一年八月下席・夜の部 主任 : 桂南喬 日時 : 八月二十九日(日) 入り : 約五十人(十七時五十分入場時) リポート  八月も二十日を過ぎて、遅い夏休みをとった。  どこへ行く気も、何か特別なことをする予定もな いが、休みなのだから、仕事のようなことはしたく ない。こう考えたまではよかったが、たすけの場合、 ここらへんが微妙なのである。新聞社の文化部記者 などという仕事は、傍目に観れば遊んでいるような ものだ。新刊本を読み、芝居を見物し、寄席に通い、 ひんぱんに旅に出たりする。自分でも、仕事と遊び の境界線がはっきりしないのだ。  ここはりりしく、仕事関係と思われるメールは読 まない、新刊書も見ない、寄席にも行かないと決め て、毎日ぼーっとしていた。ああ、さっぱりした夏 休みだと悦にいっていたのだが、休みの最終日にな って大変なことに気がついた。寄席通いをさぼった ために、下席が残り二日しかないのに、昼夜とも定 点観測がまだなのだった。  こうなると、休みの美学もあったものではない。 妙に蒸し暑い二十九日の夕方、あわてて末広亭の夜 の部に飛び込んだ。  高座では、今松の代演、小金馬が「馬のす」を演 じている。「馬の尻尾の毛を抜くとどうなるか」と いう話題を肴に枝豆で一杯という、何とものんびり した噺が、たすけの動転を和らげてくれる。  続く漫才コンビ、順子・ひろしのステージ衣装が 華やかだ。白地に青い水玉のワンピースが鮮やかな 順子、「カルピスみたいでしょ」とポーズをとるや、 横にちんまり立っているひろしの青いブレザーを横 目で見て「東京オリンピックの選手みたい」とから かう。順子の切り返しの速さについていけず、おた おたする「天知茂似」のひろしが、何ともかわいい。  お次は、放り投げた扇子を片手でキャッチ、さん 助がさっそうと登場だ。ちっともウケないケチの小 噺を並べたあと、頬かむりに尻をはしょって、釣り の踊りを披露する。粋なんだか野暮なんだか、つか みどころのない芸人である。  家族でプールに行ってきたという一朝が「噺家は あんまりプールにいかない。すぐ浮いちゃうから」 などと言い訳しつつ、「肥瓶」に入る。二人の所持 金を合わせて五十銭という若いモンが、兄気分の新 築祝いを買うのに悪戦苦闘。品物の値段を聞く度に 「エーッ!」「エーッ!」と大声を繰り返す。人の 良い江戸っ子を描かせたら、この人の右に出るもの はいない。  アサダ二世の奇術が終わり、正雀が艶噺の「紙入 れ」を淡々と演じていた七時少し前、ざーっという 音が場内に響いた。名物の気まぐれクーラーがクー デターでも起こしたかと思ったが、どうやら夕立ち らしい。末広亭は木造三階建て、雨がふればすぐに わかるのだが、それにしてもこの音はただごとじゃ ないぞ。さすがに他の客も気がついたらしく、きょ ろきょろと天井などを見まわしている。終始マイペ ースだった正雀が下がって、入れ替わりに出てきた さん八が「すごい雨ですねえ。でも、私の出番が終 わるころには上がるでしょう」と、ざわついた場内 を収める。  ところが、さん八の「カモシカと噺家、どちらも 戦後、一時絶滅の危機に陥った」などという漫談が 終わり、小雪の太神楽がすんでも、雨は止む気配が ない。それどころか、ますます勢いを増し、中トリ ・志ん橋の「岸柳島」、渡し舟で傍若無人に振舞う 若侍と、それをいさめた老旗本の真剣勝負が、雨中 の対決になった。  小ゑんの新作「樽の中」で幕を開けた後半戦、続 く漫才のゆめじ・うたじが開口一番、「帰るなら今 ですよ」。  鈴本で昼夜二回の高座の後、本日三つ目の仕事。 疲れているし、帰りの小田急線が動いているかも気 にかかる。「(客が)なまじいるから具合が悪い。 いなきゃやらないですむのに」とぼやく口調がとぼ けていて、憎めないのである。  「巣があるのに、いつ行ってもいない。よく見た らシジュウカラの巣だった」  「鳥がいないのに、何でシジュウカラだとわかる の」  「そういう問題じゃねーよ」  「でも、わかんないもの」  やる気のないそぶりの導入部だったが、本題に入 ると、洒落を解さぬ相方に辟易する、いつものネタ が冴えに冴えるのだが、雨脚はますます強く、なん だか避難場所の体育館で余興を見ているような感じ にみえるのが情けない。  落語二題は、代演続き。円窓の代わりは、弟弟子 にあたる生之助の「開帳の雪隠」。両国・回向院の 門前にある駄菓子屋の老夫婦、参拝客が次々雪隠を 借りにくるのに目をつけて、小金を儲けようとする が・・、という小品で、どういうわけか、たすけは この人のこの噺ばかりに当たる。さほど魅力的な噺 とは思えないが、他の人では聴いたことがない。 「なぜ専売特許にしたのか」と、一度本人に聴いて みたいものだ。  雲助のピンチヒッターは、兄弟子の伯楽。出囃子 の「鞍馬」を聴いて、一瞬、故馬生を思いだした。 生きていれば、十八番の「目黒のさんま」が聴ける 時期なのである。そういえば、と思いだしてパンフ レットをひっくり返すと、「来月、新・馬生が誕生」 の見だしが踊っていた。  ひざがわりの小正楽も、来年、師匠の名跡「正楽」 の襲名が決まっている。「相合傘」をさっと切った 後、最前列から「八幡太郎義家!」の一声。珍しい 注文に驚いた様子もなく、「どんな人か、良く知り ませんが」といいながら、小正楽は、弓を持った武 将の姿を鮮やかに切る。注文主はと見ると、最近よ く客席で見る老人である。やや曲がった背に青いリ ュック、必ず最前列に座るのだが、舞台をみている のかいないのか、いつも下を向いている。完成した 絵をどうするのかと見ていると、小正楽が次の「ス ターウォーズ」という注文を考えている間に、件の 老人はさっさと席を立って帰ってしまった。  トリの南喬が出てきたあたりで、雨音が聞こえな くなった。  落ち着きを取り戻した客席を見て、座りなおした 南喬、  「アタシの住んでる高級住宅地、練馬区の上石神 井では、子供が外で遊んでない。夕方になると、 『遊んでいる子は早くおうちに帰りましょう』とい う放送があるけど、『遊んでるお父さん、はやく帰 りましょう』の方がいいんじゃないの」とマクラを ふって「真田小僧」へ。  寄席じゃ珍しくもない、軽めのネタである。たっ ぷり時間があるのに、それはないじゃないか。こち らの落胆を知ってかしらずか、南喬はじっくり、マ イペースで噺を進めていく。  知恵の回る長屋の子供が、父親から小遣い銭をぶ んどろうと、一計を案じる。  「おっかさんが、おとっつあんの留守に男を引き ずりこんだんだよ」  子供が話を小出しにするので、気がもめる父親は、 何度も追い銭をとられてしまいーー。南喬は、いわ ゆる子供らしい声を作らず、セリフ回しと表情で、 長屋のワルガキを生き生きと描き出してゆく。  まんまと銭をもらった子供は、しばらくすると舞 い戻ってきて、講釈の「真田三代記」をひとくさり。 真田の旗印「六文銭」の配置を尋ねる、新たな小遣 い奪取作戦を展開するくだりは、普通の寄席ではま ずお目にかかれない。  いつのまにか引きずりこまれて、気がつくと三十 分。これはもう、いつも浅い出番の若手で聴いてい た、つまらない長屋ばなしとは別物である。「真田 小僧」は、けっして軽い噺ではなく、立派なトリネ タなのだと、今ごろ気がついた。骨太で、楷書の芸 だが、細部の描写に意外なほどの繊細さを見せる南 喬。もっとトリで聴いてみたい、いや聴かねばなら ない人である。  追いだしの太鼓にのって、良い気持ちで外に出た。 ついさっきまでの激しい雨音がうそのように、から りと晴れた夜空。末広亭のまん前に出来た、大きな 水たまりに、向かいの居酒屋のネオンが映っていた。 たすけ


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