割床は地獄以下

 
 高級な深川の料理茶屋にしても、一座敷に一客を寝
かせるということはまれである。二〜三客から多いと
きには五客くらいまでの相部屋は、当然党悟しなけれ
ばならない。この場合、寝床の仕切りは廻し屏風で、
これを割床(わりどこ)というのである。
 天明七年(1787)暮れから八年にかけて、日本
橋の中洲に新吉原の仮宅ができたとき、仮宅もまたこ
の割床の様式を採用している。
 中洲仮宅をとりこんだ黄表紙『縞黄金肌着八丈』(
寛政元年)に、「なにさ、屏風をひつくりかヘしたり、
あたまを踏まれるをみては地獄の方がまだましだ」
 とあるのは、この割床混雑の状況で、吉原の河岸見
世ならいざ知らず、一流娩楼ではあり得べからぎるこ
とであった。
 それが、天明七年(1787)の吉原大火後の臨時
営業仮宅では口常茶飯の出来事となる。中洲に借りた
家も狭く、遊客がわんさと押しかけたので、このよう
なてんやわんやの騒動となった。これは、岡場所の割
床以上に窮屈だったからで、「地獄(私娼窟)の方が
ましだ」の評もうなずけるのである。
 ちょんの間遊ぴが原則の岡場所では、時間が来ても
女を放したくない、さらに時間を延長したいという場
合、これを「直し」と称し、追加料金を支払う習わし
である。「直し」は茶屋にとって大いに歓迎するとこ
ろで、特に「朝直し」は居つづけを意昧するところか
ら、深川ではこれを「大直し」といい、茶屋からのサ
ービスとして、直し肴が供された。
 深川には子供検番(当時は見番と書く)・芸者検番
があって、子供や芸者の名札が下げてあり、客のつい
た女の札は裏返しにされ、唯今座歎に出ていることが
わかるようになっていた。茶屋の仲居や船頭は、客か
らの需めがあれぱ、まず検番へ行って、名札を確かめ
る必要がある。これを「札を見る」という。そして、
すでに、他の座敷に出ている女を呼ぷ場合、吉原では
揚げ代金を上積みする「貰い引」という方便もあるが、
深川にはこの制度かない。よって、女に馴染客の来て
いることをひそかに知らせると、女はお座敷の時間を
都合して、こっそり男と逢うという芸当を演じること
もある。これを「盗み」という。裏返していえぱ、先
口優先が原則であるから、後口はこの盗みを期待する
か、客の帰った後でなけれぱ、女を座敷に呼ぷこと
ができなという不文律があったということになろう。
 仕舞いというのは、予約制の遊興で、何月何目の昼
を仕舞うとあれぱ、その日、女は他の座敷に出ること
は許されない。豊芥子の撰した『深川大全』という書
に、仕舞は昼夜、また昼ぱかり、夜ぱかりと切る事も
あり、いつ何日に夜ぱかり仕舞と約束をすれぱ、其日
は外の客へは出ず、なじみの客来る時はようじと断る
か、または逢はねぱならぬ時はひそかに逢ふなり。こ
れを魔とも盗むとも云。とあるのは、遊里の掟にも抜
け道のあることをうかがわせるが、「ようじ」は用事
の事を当て、「用事を付ける」というのは、この里の
通言なのである。
 場所によって、その諸分けに若干の差はあるものの、
遊興の規件というものは、案外に厳重に守られていた。
そして、官憲の摘発から身を守るためにも、その遊所
主体の安全対策が講じられていて、そこにも不文祥の
規約と秩庁が存在したのである。こうした一極の連帯
感も、強力な権カに対してはきわめて微々たる力しか
発揮できなかった。非合法な隠し売女という特殊地帯
のたどらねぱならぬ運命は、寛政改革、そして天保改
革時の、二度にわたる徹底した私娼取締りによって、
明らかにされるであろ。