「岡場所」の確立

 
 隠し売り女は、いつの時代も旅篭・風呂屋・水茶屋
・料理茶屋などを基盤として発生し、盛大になりと、
しばしば当局の手が入って縮小し、あるいは壊滅した。
こうした消長を繰り返しながら、宝暦(1751〜1
764)から明和(1764〜1772)にかけて、
江戸の岡場所はその組織を確率していった。時あたか
も田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治下にあり、風俗
取締りが比較的ゆるやかだったことが原因でもあろう。
平賀源内(ひらがげんない)の戯著『風流志道軒伝』
(宝暦十三年)は、このころの江戸岡場所の分布につ
いて、次のような地名をあげている。
深川・土橋・三十三間堂・直助屋敷・入船町・石場・
佃・新大橋・御旅・一ツ目・鐘撞堂・山猫・大根畑・
鮫ヶ橋・万福寺・朝鮮長屋・いろは・ぢく谷・世尊院
・御箪笥町・音羽町・根津・赤城・薮の下・愛嬌稲荷
・市兵衛町・氷川・同朋町・丸山町。
 なお、陰間のあった地域としては、
堺町・木挽町・神明町・湯島・英町・茅場町・神田神
明前・市ヶ谷八幡前・麹町平河天神前を、記している。
もちろん、その一端を示したに過ぎないが、宝暦前後
にほぼ完成した女色・男色の売笑地帯分布は、寛政(
1789〜1801)初年まで、さしたる変化はなか
ったようである。天保(1830〜1844)末年に
石橋真国の著わした『かくらざと』下巻には、寛政の
改革の折りに廃せられた岡場所として、次の五十六ヶ
所をあげている。
蒟蒻島・浅蜊河岸・中州・入船町・三十三間堂・土橋
・直助屋敷・新六軒・横堀・井の堀・大橋(東・西詰)
・六間堀・安宅・大徳院前・回向院前土手・六軒・亀
澤町・朝鮮長屋・三島門前・浅草広小路・どぶ店・柳
の下・万福寺門前・馬道・智楽院門前・新鳥越・多町
・山下・牛込行願寺・赤城社前・市ヶ谷八幡前・愛敬
稲荷・高井戸・青山・赤坂・氷川・麻布高稲荷・芝神
明前・三田同朋町・赤羽根・芝横新町・芝車町・高輪
・牛町。
 寛政改革をくぐり抜けて生き残った遊里三十二ヶ所
を加えると、天明の盛時には優に八十ヶ所を越した岡
場所が、江戸市中から近郊にかけて散在していたこと
がわかる。
 文化・文政(1804〜1830)になると、再び
岡場所の勃興を見るが、遊所としての規模は深川七場
所を第一として、大方は隅田川の川向こうに片寄る傾
向が見られ、谷中・根津・音羽・三田・鮫ヶ橋など場
末の遊所は旧観を保っているものの官権の目の行き届
く町中の遊所は、売笑機構を新たに作り得ないまま逼
塞(ひっそり)してしまったごとくである。しかし、
密娼の別働隊ともいうべき町芸者の跳梁(ちょうりょ
う)は、隠微にして捕捉し難い新たな売色地帯を、江
戸市内の随所に形成することになった。