鐘撞料、一軒月四文
 江戸市民に時刻を知らせる時の鐘の最も古いものは日本橋本石町の時 の鐘である。これも最初は太鼓で、明六つと暮六つを知らせるだけであ った。  本石町の時の鐘は辻源助という者の先祖が徳川家康から許可を得て始 めたものと伝えられている。太鼓から鐘に替えられたのは、二代将軍秀 忠の時代からで、その際、昼夜十二刻に時を知らせるように改められた。  江戸市内にははじめ本石町の鐘しかなく、この時の鐘は江戸市内一円 に間こえたようである。本石町の時の鐘は江戸市内から鐘撞料を徴集す ることが認められていた。武家と社寺を除き、一軒につき月四文、年四 十八文の割であった。  鐘撞料は、はじめ三百町から、後に新しい町を加えて四百十町から徴 集したから、その総額は膨大なものであった。  江戸の人口が増大し、市街が拡大するにしたがって、時の鐘の数も増 加した。幕末に刊行された『江戸名所図会』には、時の鐘の所在地とし て、本石町のほか、浅草寺、本所横川町、上野、芝切通、市谷八幡、目 白不動、赤坂田町、四谷天竜寺を挙げている。  このうち、本所の時の鐘は鐘撞料を徴集している。ここでは、武家は 禄高に応じて、寺社町家は小間一軒について三文の割で徴集した。  本所の時の鐘を請け負っていた甚右衛門と長右衛門の連名で、時計購 入代金についての報告音が残されているところから、時の鐘は時計によ って時刻を調べて撞いたものと考えられる。  本所だけてなく、他の時の鐘も同様に時計に従って鐘を撞いたもので あろう。  天竜寺の時の鐘は、いまも新宿駅南口に近い同寺の境内の鐘楼に掛か っている。この鐘は都心部から離れているために、本石町、本所、上野、 浅草の時の鐘ほど有名ではない。  しかし、それだけに内藤新宿一帯にとっては、唯一の時の鐘として珍 重されたわけである。この鐘は、他の鐘より大分早目に撞いたといわれ ている。それは江戸城までの通勤の時間を考慮してのことだという。し たがって、当時新宿では、一種のサマー・タイムが年間通じて実施され ていたことになる。天竜寺の時の鐘には、この鐘が何度か改鋳されてい ることが銘文に記されている。本石町のほも何回も改鋳されている。も ちろん、火災によって焼失したこともあるが、時の鐘の寿命が短いのは、 四六時中撞かれるため損傷することが多かったからと思われる。  天竜寺には時の鐘と同じく牧野備後守成貞が奇進したと伝える「和蘭 渡り」の時計がある。この時計はいわiゆる櫓時計で、外装は幕末ころに 改装されているらしい。また文字盤は明治初年に二十四時法に改められ ているが、本体はかなり古いものと思われる。  本所の例や天竜寺の例でわかるように、時の鐘は時計によって時刻を 知って撞いていたわけである。けれども、当時の時計はそれぽど精度が 高くないうえに、標準になる時報というものがなかったから、時計の示 す時刻そのものが、かなり怪しげなものであったわけである。  そのうえ、時計と鐘を撞く装置が連動しているのならともかく、鐘を 撞くのは人間であるから、時の鐘が必ずしも時計の針の示す時刻に正確 に撞かれたという保証はない。  当時から時の鐘が必ずしも正確でないといわれていたし、特に夜間の それはしばしばルーズになりがちであった。江戸の市民は「他に時を知 る手段がなかったから、時の鐘を間いて、ただそれを信じるしかなかっ たわけである。  時の鐘は京や大坂のような大都会はもちろん、中小の城下町にも設け られた。もっとも、多くの場合は寺院の鐘で間に合わせたようである。 増刊「歴史と人物」中央公論社 岡田芳朗 著