時の鐘

 江戸での時間は時の鐘の数をかぞえて知った。その撞き方は地方
によって相違があるが、江戸市内では注意をひくために捨て鐘とい
ってまず三つ撞き、続いてその時刻の数だけ鐘を撞き時刻を知らせ
たのである。庶民は鐘の音をいっち・にぃい・のさんで時を知ると
三つ撞きの後は無心に数を数えたのだった。          
 この時の鐘は江戸初期には日本橋本石町(ほんこくちょう)に唯 一設置されていたのだが、明暦の大火(1657)以降の市街地拡 大とともに上野や浅草などにも設けられその数十となった。   
 本石町に住んでいた時の鐘役「辻 源七」の書き上げによれば、 はじめ江戸城内で太鼓を鳴らして時刻を報じたのだが、江戸市中に その音が届かず、幕府は寛永三年(1626)本石町三丁目に二百 坪の土地を給し、鐘楼をもうけたのが時の鐘のはじまり。    
 時の鐘の維持についても書かれている、それによると、本石町・ 本所・上野・芝の四ヶ所は請負人を定め、周辺の町から鐘撞き料を 徴収して維持費に充当した。その他の六ヶ所は、浅草寺が境内地貸 し付け料からの助成、目白・四谷が托鉢(たくはつ)、赤坂が成満 寺の檀家からの寄付、市ヶ谷では付近の住民の寄付、下大崎村につ いては不明となっている。