○江戸っ子の成立

 江戸っ子が文章として初めて登場したのは、明和八年(1771)
の万句合(まんくあわせ)に、「江戸ッ子のわらんじはくらんがし
さ」という雑句の一句からである、続いて安永二年(1773)の
万句合に「江戸ッ子にしてはと綱(渡辺綱)はほめられる」という
句があるの、故に江戸っ子という言葉は、明和・安永年間に江戸の
住民達の間に定着したはやり言葉であったのだ。        
 天明四年(1784)刊の洒落本「狂訓彙軌本紀」(きょうくん
いきほんぎ)の序文に書かれた一節では、「東都子」と書いて「エ
ドッコ」と振り仮名を振って読ませてもある。         
 江戸っ子という言葉は、京都(当時の都)に対して、江戸の住民
がそれらと充分に対抗するだけの大都会として、自分たちの都市江
戸を東都として意識した時に初めて生まれた言葉であった。   
 江戸っ子より早いものに、江戸者(えどもの)という言葉がある。
宝暦八年(1758)刊の雑俳集「俳詣武玉川」十二編の、「腹を
たたいて見せる江戸もの」という句や、明和二年(1765)刊の
「柳多留」初編の、「江戸者でなけりゃお玉がいたがらず」という
句にも見えるものが、早い例である。ほぼ並行して使われているの
だが、江戸者者といい、江戸っ子といい、江戸という大都会で生ま
れ育った人間だという連帯感から成立した言葉であることは確かで
あろう。                          
 宝暦・明和の頃に、江戸の人間であるという連帯感が生まれたと
いうことは、この時期に江戸が、都市としての完成を見、独自の文
化を樹立したことにつながる。                
 都市としての江戸の完成は、これを町数について見ると、延宝七
年(1679)に八百八町、正徳三年(1713)に九百三十三町、
享保八年(1723)に千二百十町、同十年(1725)に千六百
七十八町と増加し、寛保三年(1743)に千六百七十八町に達し、
以後寛政三年(1791)まで増減を見ない。