○鯰 絵(なまずえ)                   

 安政二年(1855)十月二日の夜、江戸湾付近が震源地の直
下型大地震が江戸を襲う、町家の崩壊一万四千件余、死者約四千
人の被害であった。いわゆる安政の大地震で、市中三十八ヵ所か
らの出火によって焼失した家もかなりの数のもぼった。    
 十月は神無月で神々が出雲に出かけて留守をする月、その留守
を良いことに、いつもなら鹿島神宮の要石で押さえつけていた鯰
が暴れだし、この大地震になったとの噂は江戸中に広まり、この
地震の直後から期せずして鯰絵の大出版ブ−ムが巻起こったので
ある。                          
 鯰絵とは瓦版の一種で、つまり、違法な出版物なのだが、どう
してこのようなブ−ムが生じたのだろうか。幕末期の不景気や物
価高、それに加えてペリ−の来航など対外緊張により政治不安な
ど、庶民生活を直撃する社会状態のなかで、突然大地震に襲われ
たのである。人々は情報に飢え、世直りを期待していた。こうし
た情報活性化の条件が複合するなかで、なかば公然と絵草紙屋た
ちが鯰絵の出版をはじめたのである。            
 災害は大工などの職人たちに仕事を与えた。鯰のお大尽を職人
たちが接待する絵も刷られている。絵草紙屋も、鯰がこんなに美
味なる物と初めて知ったという川柳まであらわれた。     

 「絵草紙屋 鯰の味を 今度知り」            

 十月の鯰絵の出版ブ−ム静観していた町奉行所と取り締まりの
名主たちは、十一月二日から十二月十三日までの間に、三百二十
八種類の鯰絵などの版木を没収した。その版元は八十七人にも及
んだという。十二月には九名の地本(絵草紙)問屋が町奉行に逮
捕された。                        
 鯰絵の製作には劇作家や浮世絵師も参加し、多くは多色刷りで
錦絵にそっくりの作品が多い。こうした現象は天保改革が失敗し
た直後からあらわれていたが、安政の地震によって一気に噴出し
たのである。                       
 幕末の社会不安のなかで、世直りを期待する庶民が挙って買い
求めた鯰絵は、まさに庶民の気持ちを代弁する出版物であったと
いってよいだろう。