○番頭はんと丁稚どん

 番頭はんと丁稚どん、言葉は上方(関西)弁である。     
江戸に多かった大店の本店は伊勢・近江・京都・浪速等、上方に多
く、江戸店(えどだな)は、さしずめ東京営業所的存在であった。
そのため、支配人、番頭、丁稚はすべて身元の確かな地元民を本店
で採用、もちろん教育も本店で行われたのが通例、そのため、皆言
葉はお国訛り、上方弁が商売の鉄則でもあった。        
 なぜ江戸での採用を拒んだのかの本音は「江戸商売繁盛記」にも
見られる通り、大名の参勤交代同様、本店側に人質を採って悪行を
制限したに他ならない。                   
 又、商いに女は不要、店には賄いの女が通って来るだけで女っ気
は無く、すべて男社会なのだ。それも商売以外に気を使わせないた
めでもあった。又、番頭になると妻帯が許されるが、それも相手は
郷里の女に限られ、妻を江戸に連れていく事は許されず、年に一度
一月程の休暇を貰って妻のところに戻れるだけの単身赴任だった。
 又、丁稚どんは十才頃に採用され、住み込みで商売の基本を仕込
まれたのち江戸店に送られる。しかし、奉公人は石の上にも三年奉
公、といわれ、三年勤めてようやく在所登りといって親元を訪ねる
ことを許された。                      
 奉公人は三十代後半まで(当時四十才は初老で定年隠居が通例)
勤めれば、郷里に戻って多額の退職金が出、安楽に余生が送れると
あって、昼夜を問わずに働いた。