うんちく・黄表紙【2】
【2】黄表紙とは(その1)                         

 黄表紙は、時代的には、1775年から1806年の間、わずか30年ほどの間に
爆発的に流行した文芸の形態です。作品総数としては、2000種以上、年平均60
〜70種くらいになります。初期の数年は当然少ないですから、多い年には1年に百
種を越える新刊が出ていた、ということになります。              

(1)始まりは恋川春町画作『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』
(1775年刊)・・・・まずは恋川春町という人、実は駿河(現静岡県)小島藩の
武士で、お役目は割と重要なポストの方です。彼が黄表紙の開祖で、子ども向けの読
み物に洒落本の世界を導入し、大人向けの内容にしました。『金々先生栄花夢』、こ
れが黄表紙の始まりです(図5)。                      
 春町は江戸の藩邸に住んでいて、浮世絵師を目指していたらしく、ちゃんと当時の
浮世絵師に習っていたので、絵も描けます。画作(自画作)というのは、絵も文も自
分で描いたよ、ということです。ちょっと可愛らしい感じの絵を描きます。雰囲気が
鈴木春信という浮世絵師の絵に近い感じの可愛さです。実は、黄表紙の誕生、春町の
登場というのは、「作者」の登場、という意味もあるんです。これはどういうことか
というと、先行の赤本や黒本というのは、往々にして作者の名前がわからないことが
あるんですね。特に、赤本の多くには作者名が入っていない。けれども、絵を描いた
画家の名前の方はしっかり入っている。桃太郎にしても、かちかち山にしても、皆が
とっくに知っているお話です。だから、文章の方は誰が書こうと一緒でオリジナリテ
ィは発生しない、という考え方なわけです。それよりも、この絵は誰が描いたかとい
う方が重要です。手塚治虫が、例えば『桃太郎』の絵本を描く。しかも、出版社でヒ
マを持て余していた編集者が適当に書いた本文が原稿だったとします。その場合、「
絵・手塚治虫」というのは入っても、文についての作者名は入らない、という感覚に
近い。春町の登場、というのは、手塚治虫が、桃太郎という誰でも知っているお話そ
のままではなくて、鉄腕アトムのお話を創作して絵を描いたようなもの、この場合、
アトムには「絵と文・手塚治虫」と入るわけですね。この違いです。ちなみに、黄表
紙というジャンルが確立してくると、今度は、作者つまりお話の方が重要になってき
て、作者名は入っているけれど画師の名前がわからない、という逆転現象まで起こっ
てしまいます。                               

(2)体裁‥‥黄色の表紙、だから黄表紙です。表紙に貼ってあるタイトルの紙を題
箋(だいせん)といいますが、黄表紙の場合、絵が入っているので「絵題箋」と呼び
ます。中味はモノクロですが、絵題箋の方はそこはかとなくカラーです。この絵題箋
の縁などのデザインは、出版社や発行された年によってそれぞれ違っていて、もしも
その作品の発行年や出版社がたまたまわからなくても、そのデザインによってわかる
こともあるわけです。でも普通は、大きな文字でタイトル、作者名と出版社名などが
小さめの字で入っていますから、デザインでうんぬんというのはさほどない事態です
けれど。絵は、中味の一部を簡単に描いたもの。そのお話のヤマ場の部分が使われる
ことが多いです。いまも、映画のコマーシャルなどで、ちらっとかっこいい見せ場を
見せて期待させる、というのをよくやりますが、あれと同じ発想です。      
 中味の紙の質は、漉き返し紙です。漉き返し紙というのは、いわば再生紙です。黄
表紙なんてものは、現在の週刊誌のように、読み捨てられても惜しくないようなシロ
モノですから、再生紙で十分なんですね。いまの再生紙はもっと品質がよいですけれ
ども、このころのは古紙を集める業者さんが集めてきた反古を材料に、単にもう一遍
煮溶かして漉いたものですから、黒ずんでいて、紙の繊維の間にはたまにゴミやらほ
こりやらが一緒に紛れ込んでいたりします。                  
 大きさは、中本型、B6弱程度の大きさです。先に赤本のところで「1丁」という
話をしましたが、黄表紙もやはり5丁で1冊、ただし、ひとつのお話がたいてい3冊
で完結、つまり15丁、頁に直すと30頁、というかたちになっています。通常3冊
たまに2冊、本当にまれに1冊のものもあります。               
 また、印刷ですが、これは整版という、1枚の版木に絵も文字も全部直接彫り込ん
で印刷したものです。                            
    


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