『銀座と浅草』 廣津和郎

 浅草は6,7年前に屡々出かけて行った。これは少々バカバカしい事ではあるが、その頃、自分はへんに苛立たしい気持ちで、何もかも無意味になってしまって、その日その日を持て余していた。その中に、自分は最もとぼけた遊戯、球ころがしなるものに、へんにおもしろみを感じてしまったのである。

 おもしろみというのは当たらないかも知れない。やけ糞な、わけの解らないやるせなさの捨て場、そんな風に云った方がほんとうかも知れない。それは、射的や引っかけ釣りなどと同じように並んでいる遊技場で、半間に一間の台に、穴が幾つか開いていて、それに『敷』とか『島』とか『朝』とか『日』とか書いてある。それに球を突き入れては、『朝』と『日』とに入れば朝日一個が取れ、『敷』『島』に入れば、敷島が一個取れると云ったような遊戯である。

 それをやっている者は、職人、小僧、商人、そういった連中ばかりで、知識階級の人間など一人もいない。

 自分は毎日毎日、何という事なくそこに通って行った。自分に取っては活動写真も興味が無く、オペラも興味がないので、浅草の興味は、ただその球ころがし屋一つにかかっていた。それで、毎日浅草に出かけて行きながら、自分は浅草の何事にも殆ど気がつかなかった。その後自分は、その遊戯の熱中が少し鎮まったので、それから浅草のその他の部分を歩き回って見るようになったが、浅草というものの複雑さは、自分には未だよく解らない。上にのべた球ころがしにしろ、花屋敷にしろ、活動小舎にしろ、安来節にしろ、道ばたのアイスクリーム屋にしろ、夜遅くなると怪しい場所へ客を案内しようとする朦朧車夫にしろ、すり、きんちゃくつきり、無頼漢、詐欺師等と云うようなものを、その素性を百を百も承知しながら、平気で止宿客としている宿屋にしろ、公園のベンチの上で、夏や春秋は愚か、冬でさへも居眠りしている浮浪人にしろ、ただれて剥げたペンキのような顔をしている女達にしろ、一つとしてこの大東京の表面のやけくそと現世的な享楽と悲惨とを語っていないものはないが、併しそれをもう少し深く見ると、その表面のみだりがまさしの底に、浅草には又不思議に澄んだ、真実な、江戸の伝統が残っている。

 十二時過ぎ頃、北田原町の『公園への近道』である、西側に飲食店の並んでいる細い路地、そんな中に深更まで店を開けている支那料理屋などに寄って見ると、そこには雑多な客のいる中に、土地の人の湯帰りにワンタンなどを食べているのに出会う事がある。それ等の人々同士が挨拶しているところを見ると、何処までも洗練されていて、義理堅くて、丁寧で、そして新開地東京市の何処でも見られない温かみと親切心とが感ぜられる。それは地味でもあり、深く彼等の住んでいる土地を愛してもいる、不思議に垢抜けた人々である。自分はそういう人々を見ると、久保田万太郎の作物などを思い出すが、浅草というものの複雑さが想像されて、我々門外漢には、この土地を見極める事は容易な業ではないという気がつくづくする。今の東京で最も騒雑なものと最も透明なものとを同時に持っている。

 自分は時々この土地に住んで、この土地のそうゆう性質を、もっと知って見たいような気がする。地震後は前ほど品物も無くなったようだが、区役所横丁、あの大阪の心斎橋筋などを思い出させるような細い横丁の両側のショウウィンドウも、浅草のけばけばしさとは反対の、質実な感じのするもので、自分はあそこを歩く事が好きだが、浅草の真面目は六区よりも、却ってこの辺に味はれる気がする。

 よって結論だが、銀座を理解する事は何も難しい事はない。三度か四度あの道を行ったり来たりして、二軒か三軒、カッフェで珈琲を飲んでればそれでいい。昔煉瓦地と云ったものだが、その名称通りに、西洋文明を片っ端から鵜呑みにする日本の現代を代表するために生まれた街で、一軒の店で仏蘭西製の新香水を売っていれば、その隣りでは独逸製の強精剤を売っている。そしてモダーン・ガールとモダーン・ボーイとが、腕を組み合って、レコードから覚えた外国の歌を口笛で吹きながら歩いて行く。

 その通り、諸君の眼に見える通りが銀座である。その街はこの調子で今後も発展すべきで、今後復興局のやる通りに、近代的西欧都市の形を、益々模倣して行けばそれでいい。(或画家や趣味家が、日本の江戸時代のような建物で銀座を復興せよと云うような事を云っていたが、まあそんな事は却って銀座としては厭味になるだろう。)
 ところが、浅草を理解する事はとても難しい。これは三度四度の散歩では到底解らない。少なくとも二年や三年は住んでみなければ、その真相は解らないだろう。(終)