浅草の始まり
|
浅草の名称については江戸時代にも相当論議されたようである。『江戸砂子』には「往古武蔵野より続てすべて草深き平原なりしが、四谷大木戸よ辺より桜田辺北は牛込本郷湯島まで山にて又この辺平原なれども民家所々によりておのづから草も浅きゆえ浅草といえるか」とある。また『求涼雑記』には「往古この辺は武蔵野より続きてすべて原野禮なれば、草のみ生茂りし所ゆえ、浅草浅芽など云いて皆草にもとつきたる地名なりと云う」とあって、武蔵野の一部を受けた草原滋き所で、往古はこの辺もやはり海であったかと思われる。浅草海苔の名称から、この土地が海と関係があるように思っている人もあるらしいが、『増補江戸鹿子』に「浅草海苔というは元来品川大森の海岸にて取れたる海苔を浅草にて製し尊貴の御前のも奉る故殊更に其根元の家を吟味して調ぶべきにあり・・」とあり、また浅草海苔は浅草川にて製する故浅草海苔ともいうとあって、浅草海苔と海は直接関係ないものである。 浅草の名前は『東鑑』にも見え、道興准后の『囘國雑記』では、 浅草といえる所にとまりて、庭に残れる草花を見て 角田川も見えわたるに森のようなる梢ありとへば、 秋ならぬ木末の花もあさくさの露なかれそう角田川かな などの詠歌がある。いずれも往昔の浅草を推測するに足るものである。このように浅草は往古より観音堂を始めとして、待乳山、駒形堂、石枕、浅芽ケ原、妙亀塚、釆女塚などの旧蹟に富んでいるので、文人詞客が訪れ、和歌や詩文などにも多く描かれている。 明暦の大火により吉原遊郭も旧地人形町から今の新吉原に移り、当時の伊達男共は草深き山谷の土手伝いに通 ったものである。また天保改革によって江戸三座と名高かった市村座、中村座、森田座などの芝居小屋も、猿若町に寄せ移り、浅草は名実共に歓楽街として栄えてきた。 |
|
『浅草観音縁起』による浅草寺建立に纏わる話を記しておく。 むかし武蔵國豊嶋郡宮戸川は漁者のあつまるところ、これ今の浅草河なり。しかるにこの川のほとりに、兄弟三人のすなどりあり。兄を桧熊(ひのくま)と名付け、次を浜成(はまなり)、弟を竹成(たけなり)と名付く。推古天皇の御宇三十六年つちのえ子(628)三月十八日の事なるに、三人の兄弟網をもち、舟に棹さして宮戸川の沖にこぎだして、網を海中におろしけるに魚さらになし。たちまちに観音の形像あみにかかりてあがらせ給う。兄弟三人大いに驚き、手をあわせて礼拝す。又網をたずさえて七浦をめぐるに、みな観音の形像あがらせ給う。爰においてますますおどろきあやしみて、すなわち家にかえり、したしきものどもをあつめて此よしをかたり形像をしめすに、汝ら三人は只人にあらず、かかるふしぎをこうぶる事、ためしあるべからず、はやく宮をつくって観音をおき奉れ、という。そのあくる日十九日に、兄弟三人かの形像にむかい奉りて申ていわく、きのうけがれたる網に霊像をかけ奉る、その罪ふかし、大慈大悲をもってなだめゆるし給え、しかるに我ら常は魚をとりて世をわたるものなり、魚をとらざれば身をすぐる手だてなし、此故に今日又海におもむきて網をおろすべし、ながわくば魚をとらせて給われと念願して、七浦に漕めぐり、網をおろして引あぐるに、魚はなはだおおくとり得たり。これを売に万貫の銭をもうけたり。人みなきとくのことにおもえり。これはかならず観音の御たすけなりとて、ついに小宮をあらため、あらたに観音堂をたてて安置し奉る。 と明記されているが、『江戸名所図会』では 本尊縁起に曰く、人皇三十四代推古天皇の御宇、土師臣中知(はじのおみなかとも)といえる人、故ありてこの地に流浪う。家臣桧熊浜成、武成と云う二人の兄弟附き添いて、主従三人恒に漁猟(すなどり)を産業(なりわい)とし、ここに年月を送りけり・・・(後略)。 この時の兄弟が二人か三人かの数は言い伝えの違いがあるが、こういう故の浅草観音さま、これが一寸八分(約5.9B)の観音様である。 |