柳橋1丁目〜2丁目

沿革

柳橋は昭和9年6月1日に起立した。町名は神田川の隅田川合流点近くに柳橋と称する橋があったのにちなんだ。 もっとも柳橋の名は江戸中期の頃から花街として、江戸人士東京人士に知られていた。
成島柳北は柳橋新誌を著し、歌人吉井勇も、          

柳橋蝙蝙とべば夜となりて
灯のうつる水なまめかしきかな

と柳橋に詩情をよせている。                 
昭和9年本町の起立にともない、幾つかの町が整理統合された。 下平右衛門町大部分、新森田町、新片町、旅籠町大部分が柳橋1町目。旅籠町一部、旅籠町2丁目。瓦町東部、須賀町東部、御蔵前片町東部が柳橋2丁目となった。  

○浅草森田町
 本町は、松平市正邸跡であった。享保3年蔵前の森田町が延焼し、御蔵火除地 として一部公収された関係で翌年ここに代地を給された。そこで森田町代地といった。町屋は代地となって以来開かれた。その後明治2年森田町代地が改められ新森田町となった。 
○浅草新片町
 本町は江戸時代御蔵前片町代地といった。享保3年12月11日、上野からの出火で蔵前通 りの片側町屋も延焼した。その際一部が上地された。そして翌4年4月松平市正邸跡のこの地に代地を給されたのである。ついで文化9年隅田川の河岸地を合わせ、明治2年浅草新片町と称するに至った。新片町にはかって島崎藤村が住んだ。彼の著作「新片町だより」は本町を題材にしている。
○浅草旅籠町
 本町は、 元禄元年以前から存在し、1丁目と2丁目にわかれていた。寛文図では幕府米倉の北西部と奥州街道との間に「はたこ丁」と記入されている。町名の由来は奥州街道の地で旅館街で賑わったことにちなんだらしい。御府内備考では「江戸浅草旅籠町壱丁目と唱旅籠町の由に有之候」と述べている。